Yoyumeからのメッセージ 2002年7月19日
皆様ご機嫌よう。
本日もお導きはさせて頂くつもりだがいつもと趣を変えて今日はというより今後は私が一方的に導きをさせて頂くのでなく皆さんと共に語らいながら導きを進めていきたいとおもう。
それをするにあたり一番大切なのは皆さん一人一人が参加する事なのです。間違った答えを言っては恥ずかしい。自分の知識の無さが人に知れるのではないか。そういう思惑は一切捨ててください。この場では皆さんが答える。答えがどんなものであってもそれはそれでいい。人それぞれに学ぶ段階、準備が出来ているかどうか、より難しい問題に取り組む準備が出来ているかどうか、その遅い速いは夫々違う。そういうことを憶えていてどんな事でも良い、心に思い浮かんだことは皆さんの守護霊もしくは先生方が教えてくれているのだから活発に色々な意見を交わしてください。その中で当然間違っているのは訂正させて頂きます。またその話し合いの様子をみて他の先生方が導きをして下さいます。
ことさら用意してきたわけではないが、まず皆さんへの質問です。
皆さん夫々の人生において大きな節目の出来事と言うか、祝い事、祭り事と言ったら何をあげますか?
Paha(ぱふぁ): 誕生日です。
Yoyume(ヨユメ): 誕生日ですか。ほかに?
Shoka(ショウカ): 子供の誕生です。
Y: 他には、ツツカベーラ、どう思いますか。
Tutukabella(ツツカベーラ): ごめんなさい。ちょっと質問がわかりません。
Y: わからないのですか。どなたか通辞を
Anaharase(アナハラセ):英語で?
T: 日本語で。
Y:日本語で日本語を通辞するのですか?
皆さん: (爆笑)
A: 人生の祝い事で大きな出来事といったら何をあげるか?
Y: 祝うべき事と置き換えても良い。大きな出来事。
T: 私にはキリスト様と出会ったことです。
Y: なるほど。どなたにも共通している事。殆どの人にも共通している事です。個人個人のでなく。今のところ二人の人から誕生という答えが出ています。パファが言うのは自分の誕生日、ショウカが言うのは子供の誕生日。誕生日だけですか?トコロはいかがですか?
Tokoro: 私たちだけでなく皆さんに言えることですね。
Y: 多くの人に、殆どのひとに。
T: …(回答なし)
Y: 皆さん難しく考えすぎます。アトシエはどうですか?
Atosche(アトシエ):質問がわからないです。英語でお願いします。
それではヒントをあげます。その答えは3つあります。
生命の誕生があげられた、誕生あれば必ずあるのは何ですか?
皆さん: 死。
Pakesaa (パケサー): それを考えていた。
Y: パケサー、考えていただけではだめ、考えていたら言わなくてはいけないと申しました。
実は誕生、結婚、そして死。この三つ夫々は大切な祝い事。
以前話したように誕生というのはこちらでは喜ばしい事だが実存界からの別れを意味する。魂の仲間が降りていく。苦しい肉体世界へ、物質世界、自由の利かない肉体の中に生まれていく。
そして結婚。これは殆どの人が自分の使命成就の為により良き相手を得て、お互いの使命成就に役立つまたは実際に使命成就を助け合う。しかしいつも助け合うわけではない。相手に苦労をかけ一見助けていないように見えながら相手の学びとなって協力していることがある。そのために結婚。しかし全部の人が配偶者を得て使命成就をするようになっているわけではない。霊的な道に入った人達のなかで結婚をしない人が多いのはそういう人達は配偶者を持たないほうが良いというそういう計画がある。そういう人が敢えて結婚するといわゆる離婚だとかというそういう形で軌道修正が行われる。また結婚そのものが間違っていたわけでなく、夫々の使命成就のために決して役に立つ相手ではないと守護霊が見たときその結婚を破局という形で終わらせてしまう事がある。
それでその次は死です。
皆さんも年をとるにつれ葬式などへの出席が増えてくる。そういうのに参加する度改めて人は何かと考える。 涙し悲しんでいるご遺族の気持ちを思いやり気の毒と思う。それは当然のことですがもう皆さんにはおわかりですね。死というのは祝福すべき、ある意味で一番大切な祝い事。
昔、今でも地域、国によってはそういう風習が残っていると思うが昔は世界中のどこでもこの三つの祝い事−誕生、結婚、葬式−を盛大に、富める人ばかりでなく貧しい人もあるだけのお金を使って振舞ったものです。その名残が今も残っている。沢山の人を招待してごちそうを振舞う、こういう時にその様なことをするのは今ではなんと無駄なことだ。そういうお金を使うのなら節約して貯めておけば良いという考えも出てくる。今の世ではそれも一つの考え方かもしれないが、その無駄にはそれなりの意味があった。
そこで皆さんに質問です。
持っているお金を全部使い果たしてまでそういう時に沢山の人を招いて、時には見知らぬ人まで招待され振舞いをうける、どうしてその様な風習が出来たと思いますか?昔々からそういう風習があった。それはなぜだと思いますか?
Tokoro: 大切な祝い事を沢山の人と分かち合いたかったからだと思います。
Yoyume: そう。それは当然のこと。分かち合うのにそれだけのお金を使って振舞い、食事を饗応し、時には三日三晩に渡って食事を見知らぬ人にまで振舞った。今から考えればある人は馬鹿みたいな行為というかもしれない。その様な事をどうしてしたのだろうか。分かち合うのなら必ずしもそういう方法をとらなくてもいいのではないか? トータはどう思いますか?
Tota(トータ):昔からの信仰心の表れで盛大に次世に送り出す為にこの世の中で持っているもの全てを注ぎ込んだ。
次世の旅立ちの為に。信仰心の表れです。
Yoyume: 少し近付いてきました。
Shoka: 神への報告です。
Y: 神への報告、その答えも一部正しいです。
昔々キリスト教も仏教もそういうものが無かった時代にそういう風習があった。その頃の人達が当然違った形で夫々の神を崇拝していた。トータの言うように信仰していた。地球上のありとあらゆる違った所でこういう風習があったのを面白いと思いませんか?
実はこれは皆さんが学んできた霊的真理に則った考えが基になっている。
人様に奉仕、人様に役立つ、それを十分しないと神と一体になれないと昔の人は悟っていた。何神でもいいが昔の人は自分の為だけに生きたのでは神と一体になれないと心の奥深くで悟っていた。しかし日常自分たちの命をつなぐだけで朝から夜まで働く。ある時は狩猟に出かけても獲物が獲れない、そういう中で毎日人のことを考えて生きていくのは難しい事だった。それをしないと実存界に帰れないという事で昔の人の知恵としてみんな夫々が経験する誕生、結婚、死この避けられない祭りごとの時は皆そうしなくてはいけないと、そうすべき事と、そしてその時には見知らぬ人でも、飢えた人や食べ物を求めてくる人全てに食べ物を振舞って、一つの喜捨−奉仕ですね-をして得を積んで神と一体になる機会を持った。その様な物がない時でもその大切さを知っていた。だから一概に沢山のお金を使う事を無駄だと決めてかかるかもしれないがその由来はどこからかと考えるとまた見方が変わってくる。今、アメリカや日本では飢えている人などはいないので振舞う事によって食べ物をあげることで人助けは出来ない。そういう考え方は時代錯誤になりかねない。全てを批判する時由来というものを理解すると、今後皆さんが結婚式を計画する時、葬式を計画する又は臨む時考え方が変わってくる。
その事で質問は?
皆さん: (沈黙)
昔の人達は神へ奉仕することで自分の魂が歓ぶ事を知っていた。それが唯一の神に近付く行為だという事を知っていた。だから今、これだけ物がある時、物が余っている時それを必要としている貧しい国々の人達、自分より恵まれない人達に分けて差し上げられないのは不思議なくらいです。より多く持てば持つほど貪欲になる。
何か質問は?この話に限らず何でも結構です。
ツツカトータのご妻女は間もなく日本に帰られますね。何か質問は?遠慮なさらずお聞きください。
ツツカトータの妻女: もう少し自分なりに考え、次にまたこちらに来た時に質問したいです。まだ自分の心の中でもう少し考えたいです。
Yoyume: では他に質問は?
Anaharase(アナハラセ): お願いします。
前に皆さんと話していたのだが、我々には真理の普及という使命があるというふうに教えられているというか、本当は自分で気付かなくてはいけないのだが、やろうとした時の方法論の問題だが、どういう形で広めていったらいいのかと話あったことがある。いきなりこの話を説明すると拒絶反応を示す人が多いと思って結局ではどうしたらいいのかという事になる。 例えば悩みがあるときそれを解決するとか、それから自分たちの態度が変わりそれが回りの人たちに気付きをあたえるとかしか思いつかなかった。それでは消極的、周りの反応を待つという受身的な形になってしまう。もう少し何か良い方法は?それも自分たちで考えるべき問題なのでしょうか?
Yoyume: ご自身で考えるべき事ですがそれでは遅遅として進まない。ヒントぐらいは差し上げてもいいでしょう。
私から質問ですが、アナハラセ 拒絶反応を示すと言いましたがそれを示されたどうだというのですか?
A: 逆の効果になりかねない。こういう事に心の準備が出来ていない人に頭ごなしに説明してもかえってそんな事はないと言って逆効果。
Y:確かにそうです。それはあります。準備の出来ていない人にはどう説明してもだめなのです。よく見えないものを信じない、証拠を見せろと言う人に証拠を見せても、インチキだという。それはそのとうりです。拒絶反応というのは興味が無い、その時は準備ができていないと引き下がれば良い。ただ本来皆さんはここまで心理の勉強をして来た、波動の勉強をして来たわけです。ある人と対峙した時にその人の波動を感じるべき、感じる事ができるはずです。その時に準備が出来ておられるのか、あるいはそういう話に耳を傾けられるかなという事を何となく以前よりはそれを察知する能力をつけているはずです。新興宗教を勧めるが如く、がむしゃらに、一方的に、高圧的にこれが正しいのだ、こうなのだという話し方ではだめです。確かに難しい事ですが何かのきっかけ、例えば悪口を耳にする事がある。相手をなじっている。或いは自分の不幸を恨んでいる。取り敢えずその人の苦しい気持ちを思いやり同情という言葉は悪いが同情する。苦しんでいるのは事実なのだからお気の毒にと。「でもこういうふうに考え方を変えるとこういう見方もあるのだよ」とそういう話し方もある。いきなり霊的真理でなく日常の苦しみや病を救ってもらった人は超特急でこういうものを信じる。確かにそうだがそうでなくても良い。ゆっくりゆっくり一駅一駅進んでも良い。皆さん自身が愚痴っている人に「気持ちはわかるけど愚痴ってどうなる?貴方にはもっと大切な事をする役目があるのだから」とそういう方法で勧める事も出来る。暗い顔をしている人に「貴方の笑顔がとても素敵だから笑ってほしい」というような直接的な言い方ではないがその人が笑わずにおれなくなるように手を差し伸べる。それも霊的真理を教えている。直ちに見えない世界が、実存界が、波動の世界が、素粒子云々とアナハラセは頭が良過ぎるから難しい事を言い過ぎる。貴方のレベルで全ての人に接近してはなりません。見下してはいけないが、貴方が霊的真理の学びの上で大学に入っているのなら幼稚園生にそういう話し方はしないでしょう?その人のレベルをよく見極めて。日常霊的真理を学んで役立たない事などは何も無い。人が集まるところであれ?この発言は、この行為は霊的真理に外れている!と思った事をちょっと勇気を振り絞って「それっておかしいですよね」という形で話せばそれも霊的真理を広めていることになる。
よろしいですか?答えになりましたか?
A: はい。有難うございました。
Y: 他に質問は?
無いようなので今日の導きは終わりにしたいと思うがその前にシャマナが目を覚ましたら伝えてください。
たった一人の人でもいいから日を決め、望まれる人にhealingを施すように。それなくしてはシャマナの本当のhealingの力は出てこない。今内在しているその力までもが失せてしまう。忙しくてかわいそうと思われるむきもあるだろうが前にも言ったようにこれはほんの序の口。これからまだまだ幾多の試練が待っている。これぐらいで根を上げてもらっては困る。