Yoyumeからのメッセージ   2003年10月03日 

ヨユメ: 皆様(みなさま)、ごきげんよう。
皆さん: ごきげんよう。
ヨユメ: 皆様は「今晩は」と仰るのですね。 なぜ「今晩は」がご挨拶なのですか? 私の先生にお伺いしたら、納得のいくお答えがいただけなかったので、反対にこちらの皆様に教えていただきたいなと思って尋ねておりますが。「今晩は」はなぜご挨拶なのですか?
皆さん: (沈黙)
ヨユメ: 皆さんご存知無く使っておられるのですか?
アソウ: 夜の挨拶ではないのですか、「おはようございます」とか、「今日は」とか。
ヨユメ: 夜のご挨拶が「今晩は」なのですが、ご挨拶の意味にどうしてなるのですか? 今晩というのはこの夜という意味ですね。 それに何か本当は付くのではないでのすか?
アナハラセ: 「今晩は宜しゅうございますねぇ」の略なのでは。
パケサー:  そう言えば「今晩は」はgreeting。
アソウ: 今晩はいかがですかという意味じゃないですか?
ヨユメ: いかがですかが付くのですかね。
アナハラセ: トータが知っているのじゃないですか。
ヨユメ: トータ、いかがですかね?
アナハラセ: 物知りだから。
トータ: 確かではないですが、僕の意見としては今から晩が始まりますと。 ですからそれがなまって、縮められて、「夜が始まりますよ」と。
アナハラセ: 「お晩です」とも言いますね。
ヨユメ: 言葉は難しいですね。 このご挨拶は昔から使っておられたのですかね?
パケサー: 英語でも「Good evening。」と言うでしょう。
ヨユメ: 皆様が使っておられるので私も真似をして、前回は「皆様、今晩は」と申しましたの、お気づきになりましたか?
アナハラセ: はい。      
ヨユメ: お暇する時には「さようなら」と仰いますね。 「さようでございます」の「さよう」がどうしてお別れになるのですか。 さようならずともさようなるのですか?
皆さん: (笑い)
ヨユメ: むつかしいですね。
パケサー: なんだかアナハラセが言うようなことを。
皆さん: (笑い)
ヨユメ: 本題に入る前にこういうつまらない質問をして申し訳ないのですが。

それでは今日の議題は何でしたかしらね?
アナハラセ: 人と人とのつながり、シャクゥの。
ヨユメ: についてお話いただくのですね。 どのように進められますか?
アナハラセ: シャクウに質問をしてもらいましょうか、具体的にどうしてこうなっているというふうに。 例えば私とこの人がいたのはどうしてか?とか、どう思うとか。 それに答える形式にしましょうか?
ヨユメ: 皆様が夫々に答えるのですね。
トータ: あなたが司会をすればいいじゃない。どう思いますか?と順番に。
アナハラセ: 例えばシャクゥがここに来るようになったのも何かの縁ですよね。
シャクゥ: ま、これもやっぱり人のつながりだと思うのですよね。
アナハラセ: どうしてそうなったのでしょうかとか。
シャクゥ: どうしてなったのかわからない。
ヨユメ: 他の方に聞かれたらいかがです?
パファ: 私に限って言えば、この世の中で起こること全て偶然は無いというものがあって、人との関係にも当てはまると思うのですよね。 時には全く、例えば私の場合、当然一緒に会社にいたから知り合った人もいるけど、そうでない人もいる。 理屈にあわないような会い方もあるような気がする。 常に何か理由があると。 言いたいことは必ずしもこういう理由でこの人と知りあったという理由が無いときにでも知り合うような関係ができると思うのですね。 なぜならばどこかでそういうふうな力が動いていて。
シャクゥ: だけど人の繋がりというとそれだけじゃないかな。 ただ知っているというだけで、例えば知っているという人は一杯いるよね。 だけど人の心とのつながり、心と心のふれ合いみたいなものじゃないかなと少しは思うのだけど、どっちなんですかね。
アナハラセ: シャクゥの知りたいのは心と心を割って話せるような間柄になる。
シャクゥ: まあそうだね。 心のつながりだね、人と人のつながりと言ったらそうなるのじゃないのかなと思うのだけど、自分ではっきり分からない。 例えば知っているけどどうしても打ち解けて話すことも出来ない人も一杯いると思うのね。 あの人は顔を知っているけど、名前は聞いたけど、何時までたっても10年たっても20年経ってもどうしてもお互い何て言うの
アナハラセ: 距離をおいている。
シャクゥ: だからテレビを見ているのと同じように、入ってきたら「おっ」と、ただ、挨拶くらいはできるかも知れないが、色んな話をしたり、心の繋がりみたいなのは出てこないと思うのですね。 だから人と人とのつながりというのはどんなものか、自分ではっきり分からないからちょっと聞いてみたいと思って。
ヨユメ: 質問はその違いはどこからくるのかということですよね?
シャクゥ: そうですね。
ヨユメ: ある人はそんなに長いお付き合いもないのに長い間知りあっていたような親しさを覚え、そして長い間の付き合いにもかかわらず、親しく感じられない人がいる。 それはどういうところからきているのかというのがご質問ですね。
シャクゥ: はい。
ヨユメ: さぁ、どうしてなのでしょう?
ショーカ: 私はそのときに思うのに、前世でなにか皆と関わりがあったのでここでそういう気になるのかなとこのごろはよく思うのですけど。
シャクゥ: ただ普通、どうしてもあの人は虫が好かない、お互いに気が合わないとか、会った瞬間に、
ヨユメ: 虫が好かないとは何のことですか?
皆さん: (笑い)
シャクゥ: 要するに気が合わないと言うか、 
ヨユメ: 気が合わない。
シャクゥ: 波長が合わないとかと言っているその意味じゃないのかとおもうけど。
トータ: 普通はやっぱり馬があわないとかね。
シャクウ: 動物で例えれば犬と猫、絶対にこれが合わないというのもある。
?: 猿。
皆さん: (爆笑)
シャクゥ: だから人間に対してはどうなのか。 犬と猫ならなんとなく分かるような気がするのだけど、人と人というのはお互い喋り合うからそれであわないとか、人のつながりとはどうなのか。
ヨユメ: 言葉を交わさないで顔を見ただけでなぜか避けたくなる人もいますよね、
シャクゥ: いますよね。
ヨユメ: ですから皆様の世界では気が合うと、「気」という言葉でさっきトータが何が合うと言いました?
ショーカ: 虫が。
トータ: いや、馬。
ヨユメ: 馬があうのですか、虫とか馬。
皆さん: (笑い)
ヨユメ: 気が合うことですか?
トータ: そういうことですね。
ヨユメ: そこですね。 その気というのはどこから出ているのでしょうね。
シャクゥ: 人が持っているエネルギーみたいなものですかね?
トータ: 波動とか波長が違うとか。 悪い気を発するとか、気どうしがあわないとか。
シャクゥ: それがぶつかり合うとか。
トータ: それが波長、波動になるとおもうのですけどね。
シャクゥ: 見えないからわからない。
トータ: だけど感じるということは分かっている。
ヨユメ: 感じるということは見えなくとも間違いなくあるから感じる。
アナハラセ: 誰からも好かれる人というのもいますよね。
シャクゥ: いわゆる八方美人という
トータ:  それとは違う。皆さんから慕われるという人もいる。
ヨユメ: または皆様から嫌われる人というのもいる。
アナハラセ: 外観、顔とか見てくれは人相が悪いけどもなんか心がきれいな人というのもいますよね。
シャクゥ: だけど人に好かれる人の顔というのはやっぱり見た目で穏やかな顔。 どうしてもどことなく憎めない感じというか。
パファ: でも逆もあるでしょう。 第一印象で非常に信用しておきながらそうでなかったり、逆に第一印象はまあまあだったけど付き合ったらすごく良かったり。 必ずしも短い期間での印象があってないときもありますね。
アナハラセ: まぁ、我々の修行が足りないのでしょうね。
トータ: それがいつも言っている知恵ね、人間の知恵、これが発揮できないから騙されるという結果になるだけの話で、修行が足りないと言うよりも見る目、人間の知恵というものを常にいかさなければ結果的に騙されたということになると思うのね。 そのヨユメさんが言われたように正しいか、正しくないかその判断力をつける、これがまず間違った時には修行が足りなかったと言ったと思うのだけど、これがいかに正しいものか、正しくないかということの判断力を養う、それが今言った修行かもしれない。
アナハラセ: 話をもどすと、なぜ親しくなる人と距離をおいたみたいな人がいるのかということですが、距離を置くと今私が言いましたが、距離をおくと言っても心の世界に距離はないはずなのに距離が置いたように感じるというのはなんでしょうね?
シャクゥ: 遠慮じゃないのかな。 例えばこの人にこれ以上言ってはいけないとか。 そういう人は友達にもいるのではないのかなぁ。 例えばこの人にはこれだけ言っても同じ言葉をこの人には言ってはいけない。
アナハラセ: とういうことは壁を作っているのでは。
シャクゥ: 人間ができたらそれが無くなるかというと何億といる人間のなかでそれが全部無くなるような人というのはないと思うのね。
トータ: そうすればユートピアになる。
シャクゥ: それになれば、そういう人が一杯増えれば
ヨユメ: ユートピアが出ましたね。 
トータ: それがユートピアなのですよ。
ヨユメ: それは極土と申します。
トータ: 仏極土、阿弥陀の世界ですね。
ヨユメ: 仏極土。 この地に光の国を打建てることですよね。 それが人類がこうして降りてくる究極の目的であるのですよ。 この現世にユートピア−仏極土−を打建てる。 もともとはその様に人間は生活していたのですよ。 お互いの気持ちを探りあうということ等なく、気が通じ合うものだったのですよ。 言葉無くとも気持ちがわかる。気というものは色々な物に説明できますが、さっきシャクゥが言ったその人間一人一人がもつエネルギー−波動と言ってもいいでしょう−それにまた電磁波、皆様は生命体であるわけですからその生命体が電磁波をいつも発していらっしゃる、その電磁波が発する波動の形態と言いますか、それがあわない。 それとですね、電磁波を発するということは磁場ができます。 そうなりました時、皆様一人一人が磁石のようになるわけです。 個性をもった意識−生命体−ですね。その磁石が引き合う磁石と反発する磁石があるのです。 それでここで大事なのはみんなみんな引き合ってくっついてしまったらお話にならない。 反発を感じるような人の存在というのも必要なのですよ。
シャクゥ: それは確かにそう思うよね。 同じ流れになってしまえば流れて、逆らうことが何もないとやっぱり色んな意味で発展はしないよね。 壁がないと自分に対して、向かっていく物に対して壁がないと人間誰でも働くにしても何にしても要するにこれ以上もっとやってやろうという意欲もわかないから、やっぱり人がいるから−相手がいるから−向かっていけるかなとは思うけど。
アナハラセ: ライバルとか。
シャクゥ: まぁ、いわゆるライバルね。 ライバル心というか、他の問題だから。 でも一つ思うには生まれて何日かの赤ちゃんの場合は、ああいうときの心境って本当に透き通った水みたいな心かなと。 あれでも欲が無いと言ったら嘘かもしれない。 どうしても食べる物に対しての欲とかはあるかもしれないけど、生まれてすぐだったらすごくきれいな心だと思うけどね。 あんな心になれたらそりゃ人間、皆すごいと思うけど。
パファ: 一つ質問なんですけど、ヨユメさん。 先程人間は以前非常にきれいな気持ちであったと、相当前のことですか?
ヨユメ: 相当前でございます。 相当相当前でございます。 私共が共同生活をしておりましたときはもう既に絶え間なき争いというものがございましたから、その当時のことを言ったのではございません。
パファ:  それより
ヨユメ: もっともっと前です。
アナハラセ: ユートピアを作るのにも反発をするものがあった方がいいのですか? それはやっぱり調和して、何かいい方向のものを生み出していく?
ヨユメ: 言い方を替えますとね、究極の目的はそこにありでございますが、そこに辿り着くまでの過程として反対の力がかかりませんと前に進めないのです。 全て、全てですよ、何もそれだけではなく、進むにはその様な力が必要なわけです。 抵抗と呼んでもよろしい、障害と呼んでも、色々な呼び方がありますが、同質のものが同方向に向かったときには進めなくなるのです。
アナハラセ: それはcorral castleを作った方も言っていましたね。 必ず電磁波とかには二方向の流れがあると。まさに今我々が面している、戦争をやってみたりだとか、環境を破壊してみたりだとか、色んな、我々の住んでいる地球にとって、人類にとって宜しくないことが今起こっているというものに我々が直面して、我々がそれに対抗するというか、解決の方法を見出そうとしているということもそれに近い物があるのですか?
ヨユメ: それは当然そうなのですが、時にはそちら反対の力が大きくなりすぎて進行を阻んでしまう。 そこが問題なのです。 そのようにして何度も文明が滅びましたね。 その繰り返しでございますよ。
トータにとっては仏極堂、ユートピアというものはどういうものですか?
トータ: 一言で言うと非常に難しいと思うのですけど、みんなが平静な心でもって生活できるですかね。 無欲の、必要な物が満たされている、逆な意味では必要ないというか。 何一つお金で買うのでも無し、ほしい物が皆さんの手の届く所にあって、それも仲良く分かち合えるそういう世界だろうと思うのですけどね。
ヨユメ: 素晴らしいですよね。 そういう世界になるように皆様一人一人が精進しているわけですよね。 ただ、どうでしょう、そういう世界にするために何か大変革が必要と思いますか? それともその様なことを実現するには何が必要と思われますか?
トータ: まぁ一番はやっぱり皆が同じようなレベルのその心というのですかね、そういうものを持ち合わせるように努力していくということですかね。 それが今まで人類が出来た以上に時間はかかると思うのですけど。 一人一人がやっぱり自覚しなければいけないだろうと思いますね。
ヨユメ: 自覚するために時間がかかるということですよね。
トータ: ええ。 強制的にさせられるということは早いかもわからないですが、やはり自分達が自分の道で切り開くには、やはり一人一人の自覚というものがということになると、無欲というのですかね、物欲というそういうふうな物をかなり捨てて、皆が同じように営むというのですかね。 そういう具合に自覚していく。 そういうのには教育という方法もあるだろうし、今まではそれを弾圧って言うのですけど、力で抑えるとやはり摩擦ができて。 やはり一人一人がそういう教えを教えるというのですか、学ぶというのですか、そういうのを自覚しないと思いますけど。
ヨユメ: そうですね、一人一人が自主的に意識の改革を図らねばならないのですね。 それに時間がかかるということでしょうが。 我が強ければ強いほど、そして物質欲にとっぷり浸かっていれば浸かっているほど、その自覚に到達するのに時間がかかりますでしょうね。 しかし今の現状では無理で、何かを変えなきゃあそれは起こらない、ユートピアの建設はままならないと思われている方が多いのですが、本当は瞬時にしてできることなのです。 今、地球にいる全人類がこの瞬間足ることを知って生きることをお互い約束すれば、それ以外のものは全て必要ないとすれば食料も何もかも十分あるのですよ。 争いはなくなるのです。 
お金もあるところには途方も無い巨額な富が一箇所にかたまっていたり、このアメリカのお金持ちの個人所得が一国の全人口を救う事だってできるのです。
それを考えますとね、パケサーの食物貯蔵庫に貴方の食べられない物をはき出しただけで100世帯が救われるかもしれない、例えばの話で。

皆さん: (笑い)
パケサー: ちょっとオーバーではないですか。
ヨユメ: いえ、いえ、百世帯は大丈夫でございます。
パケサー: そうですかね。
ヨユメ: 今、まず皆様の食べる量は多いのです。 生きていくためだけにそんなに食べ物を摂取しなくてもよろしいのですよ、本当は。 たくさん食べすぎて、摂りすぎて病気になっている
シャクゥ: 皆が欲を捨ててしまえばそうならないのですかね。
ヨユメ: そうなのです。 そうなれば人間関係などというのは、人と人の繋がりなどというのはもう何の心配もいらなくなりますね。 それが出来ればね。 そこまでそういうお話されたとしてそこで終われば絵に描いたお饅頭でしたね。消化不良を起こさないためにそれでは皆さん夫々にどうされますか? シャクゥもさっきトータが言ったように理想郷ができればいいと思われますでしょう。
シャクゥ: それはやっぱり思いますよね。
ヨユメ: それではまずご自身はその様な理想郷を創るために一度には無理でもまずどういう所から自分は始めていきたいなと思われますか?
シャクゥ: 自分は食べることがまず第一。 自分の家族が食べられて人に分け与えてあげることが出来るのじゃないかなと思いますけどね。 例えば自分が余れば、自分が食べるだけを確保しないで、要するに人のためだけにはやっぱり人間として今の状態では出来ないと思う。 自分の家族を守るということがやっぱり第一に考える、考えるなと言ったらおかしいと思うし、やっぱり第一に考えて、そしてある程度食べる物が確保できれば他の、要するに貧しい人に分け与える。 余っている物はできるかも知れないと思うし。 でもまだその境地に達しない。やっぱり最初に自分の生活が出来ないで人の面倒を見るということはまず無理だと思うのですね。 自分が生活をある程度出来て、ようやく人のあれが出来る。 自分の食べ物も無いのに人に与えるということはまだ出来ない。
アナハラセ: でもね、大自然の法則からいくとまず与えると自分は自動的に生かされると。
シャクウ: だけど今の世の中ではそれは無理だと思う、実際の話。
ヨユメ: 一度やって御覧なさい。
シャクウ: 飢えてしまうよ。 自分だけだったらいいけど。
ヨユメ: 飢えると思っていらっしゃる。 その心がその様にしてしまう。
シャクウ: まだ分からないというか。
アナハラセ: その大自然の法則は宇宙全体というか、この物質世界−地球−も含めて全部に行き渡っているはずなんです。 ということはここに生きている我々もそのとおりやれば必ずそうなるようになっている。 という私も行動に移していないのだけど、本当にその様にやったら自分のことは心配しなくてもいいと思ったことは何度かあります。 それを少しでも繰り返していくしかないんじゃないか。
シャクウ: だけど一人一人が自分の食い扶持を稼ぐということが人間としての使命じゃないのかな。 例えば仕事をしなくても食べられる、食べようという人もいるじゃない。 そういう人に与える−仕事しないでものをもらって、恵まれている−というのは自分には納得いかない。 例えば体が不自由で仕事が出来ない人が困っていればそれは助けてあげることはいいと思う。 だけど五体満足でどこも悪くないけど仕事をしたくない、だけど食べる物はほしい、そういう人に食べ物を与えてあげられるかということなんですよ。 それは僕は絶対に出来ないと思う。
ヨユメ: シャクゥの考え方が大方の方の考え方です。 それがいわゆるまともな考え方なのですよ。 しかしですよね、皆様、そのシャクゥになるほどそうだったのかと思っていただくように説明しなければいけない。
皆さん: (笑い)
シャクウ:  それが聞きたくて。
アナハラセ: 我々だってね、何回もヨユメさんのお導きをいただいて、ようやく、なんとなく、嗚呼そうだなというふうに思えてきたぐらいだから、急に今この場でというのは
ヨユメ: それは至難の業でございましょうが、でもいいお勉強ですね。 なぜシャクゥがいらっしゃって下さったのか、感謝でございますよね。
トータ: 一人一人の、今、アナハラセが言われたように、一人一人の意見を聞きたいのですが、いかがでしょうかね?そちらの方から、今の言葉に対して。 彼は要するに働かざる者は食うべからずという事なんですよね、極端に言えば。  だから皆さんの意見ね、
シャクゥ: 体が不自由な人には分け与えるというか
アナハラセ: 要するにあれですか、何のためにいきているのかと言うと、食べるために働いている
トータ: まず基本は自分が結局元気でなければ人にもできないと、自分が病弱でいると人にヘルプ出来ない。 自分がまず元気であって人にも元気を与えれば、自分が病気がちでどうして人に元気を与えられるか。 どう思われますか?
パケサー: 私はね、よくクリスチャンが言うように「Charity starts from your own family」という言葉があるけれど、でもヨユメさんの教えをよく考えてみるとやっぱり人とshareすることが大事だと思う。  だけどshareするのはどれだけかという、そこが大変難しい。 
トータ: 難しいですけど、だったらパケサーはどういうふうにしますか?
パケサー: まだまだそこまで、
トータ:  だからシャクゥの大先輩として一言、やっぱりアナハラセが言ったようにようやく、なんとなく光が見えてきた、教えがわかってきたと言われるのですけど、パケサーの場合は勿論shareするのですけど比重というか分け与え方ですよね。 彼の場合は自分にもして人にもすると、只々lazyな人にはあげたくないという、こういうことに関してはどう思われますか?
パケサー: lazyな人に上げたくないというのは普通の考えだよね。 普通のhumanのfeelingじゃない?
トータ: だけどパケサーの場合はどうしますか?
パケサー: まだまだ勉強がたりません。 
トータ:  だけどパケサーの場合は?
パケサー: 私の場合はだから勉強が足らないからそれは出来ないと言っているの。
トータ: 出来ないから自分のほうを重点におきますか、自分は食べなくても人に施しをしますか?
パケサー: そこまではいけない。 それがまだまだダメだって言って
トータ:  ということはまず自分にして人にも施せると
パケサー:  奇麗事を言おうと思ったら反対言えるよ、本当のことを言えばやっぱり自分が
トータ: やっぱり自分がまずと、分かりました。 その次にアナハラセ、どうなの?
アナハラセ: やっぱり意識の問題だと思うのですよ。要は本当に奉仕する心があるかどうか。 病気になったら確かに働けない、それは偶然に起こってないとすれば、ないんですよ。  そうすると病気であるけどもなにかしてあげたいと思うかどうか、そういうところが大事であって。 それで働ける人は自分で稼げますよね。 だけど病気だったら稼げない、稼げないけど何かを人に与えてあげようという心があれば自動的に自分も何かしてもらえるじゃないけど、甘えになるかもしれないけどだけ心配しなくてもそれはそれでよろしいのではないかと。 
シャクゥ: 何とかなると。
アナハラセ: 何とかなると。 それでまずは俺がという考え方は、逆に欲しい物をどんどん追いやっているのと同じだと思うのですよ。 
シャクゥ:  いや、自分だけに関して言うのではなくて俺がじゃなくて、人間誰でも皆がそれこそ働いて健康であれば相手に対してやってあげる事も出来るという事なんですね。 なにも人間、例えばここにいる皆が病気がちでそれこそ動けない人だったら、じゃあどうなるのかということ。
アナハラセ: まず自分が不安なんですよ。 まず自分の物を確保してそれからと。 それは非常に良く分かるのですが、
シャクゥ:  確保というか、自分の健康ということはやっぱり食べる事も必要だよね。 で、やっぱり自分の健康がすぐれないとたいていの病気の人の面倒も看きれないと思う。
パケサー: それは言えるよ。
アナハラセ: 病気の人はそのとき看れないかもしれないけど、その時その時自分が出来る事があると思うのですね。 要はその気持ちがあるかどうかというところなんですよ。
シャクゥ: それはやっぱり健康であれば皆あると思う。 100人、100人皆にそれこそというわけにはいかなくても、例えばとなりの人がちょっと病気でいるときは、何かというのは皆どの人にでももちあわせている心じゃないかと思うけどね。
ショーカ: 気持ちはあるけど行動がともなわない。
トータ: だから自分は健康でないと気持ちはあるけど出来ないと。
アナハラセ: それと人間の臓器の話がよく助けになりますけどね。 まず口が「俺がうまい物をまず先に食べよう」と、胃が「ちょっと待って」と、そういうことは言わないわけですね。 まず胃が消化しやすいために口は働くわけです。 で胃は「俺が全部取ってやろう腸には○○を、俺がまず吸収してからあんたに吸収」とは考えていないのです。 それぞれ役割があるわけです。 それを認識して他の為に働いていれば自分は存在価値があるわけですから心配しなくても。
シャクゥ: だからそれはたとえば車、ガソリンが無ければ−最初のものが無ければ−エネルギーが無ければ何も動かないわけよね。 そこに物体があっても。 だから人間もそれじゃないかなと思うのだけど。 例えば人間も自分が動けなければ他にも何も出来ない、車もガソリンが無ければ動かない、エンジンがかからない。 エンジンがかからないということは何も出来ないという事ですね。
アナハラセ: まあね、食べ物だけを言えばそうなのですよ。 人間の原動力というのは、食べ物は肉体を動かすのに大事ですけど、やっぱりこの前言ったように光だとか愛だとか、思いやりだとか、そういうものも大事じゃないですか。
シャクゥ: いや、それは大事だと思う。
アナハラセ: そうするとまず自分だとか自分の家族をというと、そこでもう影−曇り−ができる。 そうすると光が遮断されるから。
トータ:  そしたらアナハラセの回答は大体分かります。
お客人、タントーラはどう思われますか?
タントーラ: そうですね、簡単なようですごく難しいですね。 
トータ: 何か試されているようでしょう? 
タントーラ: 私が思うのは今自分がこの健康な体で、今この生活状態で今のこの自分でありますよね。 だから出来るだけ人様のお役にたちたいとか人様に優しくしたいとそういう奇麗事を十分言えますよね。 果たして、これから私も歳を取ってきますし、私が本当に病気になったときとかいざ食べるに困ったとき私はこういう奇麗事を言うておれないと思います。 やっぱり衣食足って礼節を知る、と私は思います。 今の自分ではシャマナが(よく言っている)何のために人間は生まれてきたのか、それは人のお役に立つため、それもよくわかるのですが、でも今のこの姉妹の話ではそういうことは意思通じ合っておりますし、だからやっぱりその場になってみん事にはなんとも言えません。 今の私は人様のお役に立つようにという気持ちはいつももっています、私なりにしか出来ませんけどね。 でもシャクゥさんの言いはること本当に大概の人の根本的なものだと思うのですよ。 
トータ: どうも有難うございました。 
タントーラ: 何か頼りない、
トータ: いえいえ、意見聞かしてもらうだけで。 ショーカ、いかがですか?
ショーカ: 私もシャクゥの言っている(事を)三次元世界では納得していますよね。  それでヨユメさんからいままで何年間勉強してきたのであちらの感じも私はなんとなく分かってきたつもりなので、まぁ自分の出来る限りは私は行動でやっているつもりなのです。 十分でないです、でも少しずつやっているつもりです。 だからと言って自分、
トータ: 自分中心でいて三次元のつもりでも四次元の世界のことを考えるとやっぱり自分を犠牲に○○イコールにshareしてあげたい
ショーカ: とやる気持ちで今現在やっています。
トータ: なるほどね。 三次元と四次元のその違い、
ショーカ: どうしても今生きているから三次元を無視することは出来ない。 だから両方兼ね合わせてそういうふうに行動しているつもりです。
トータ: アソウは何か、
アソウ: 自分が人の気持ちになって、そのpositionを自分でexperienceするような感じで。
トータ: パファはどう思われますか?
パファ: トータの質問の直接の答えでないですけども、この間までは−比較的最近までは−自分でconditionを作っていたと思うのですね。 例えば人を助けるためにはこうでなければいけない、これは僕はいけないと思うのですね。 お金が出来たら人にあげようとか、こうなったらこうしようとか思って。 今のこの状態で−自分のこの状態で−出来る事があったらやらなくてはいけない、必ずしも物質的なものでなくて。 もし仮に貧乏だったらお金をあげなくても他のことで出来る、色んな事で(出来る)ということに最近気が付きました。
トータ: なるほどね。
アナハラセ: はい、トータ、
トータ: 僕はね、やはり基本的には自分が確立できないと人にもヘルプ出来ないということなんですけども。 ただそういうlazyな人とか病気になる人も一概に言えないのですよ、何かの色んな意味で欠如してそういう状態になった。ですからそれをやっぱり治してあげる、fixしてあげなければいけない。 だから病気の人は何で病気になったか、やはり貴方には何かが欠如していると、やはりもう少し光を与えてあげるとか。 怠け者の人には怠けないようにやっぱり教えてあげないといけないと思うのですよね。
アナハラセ: 只、単に食べ物を、
トータ: そう、食べ物を、勿論三次元としては食べ物なんですけど、皆さん一言にこう食べ物、食べ物と言われますけど、さっきアナハラセが言ったように大自然の法則から食べ物を確保するというのは難しいのですよ。 実際の話全てのものには毒物が含まれているのですよ。 で、それをどれが正しいか、要するに人間の知恵ですよね、これはやっぱり長い間培われた物で、ここにあるこの茸、これを食べたら死んでしまう、これは非常においしいと、こういうものをしらない人にshare、教えるということは一つのshareだと思うのですよ。 で病気になっている人も病気を治してあげなくては−「貴方、気を整えてなくてはいけない」−というときにヒーラーという、要するにお手当てしてあげて、そういうその全て自分がもっているもの、シャクゥが言ったように食べ物だけじゃなく、やはりそういう気(?)をもっていて、今まさにパファが言ったようにその気で補ってあげると。 で、やはり病んでいる人には助けを与えて、分からない人には「これは食べていたらはダメですよ」とそういうふうにものを教える事によってやっぱりshareできると思うのですよね。 だから知恵というもの無い人もある人もあると思うのですよね、それはやっぱり経験だとおもうのですが、それをぜんぶ教えてあげて、それでやはり一言で言えばshareということになると思うのですよね。 これが私の考えですけども。

え、ツツカノーラだったっけ、どう思われますか?
ツツカノーラ: 私はもしも10人いて、9人はいつも分けてもらって皆と一緒にshareして、一人の人だけは自分だけ皆食べ物を持っていても私はその人にも分けてあげたい。 と言うのはもしもいっつも分けてあげていると多分その人はいつかは分かってくれるのじゃないかと思う。 もしも無視してその9人にあげていたらその人は絶対分からないと思う、いつまでたっても。 だからその一名のためにずっとあげていきたい。
シャクゥ: 平等にということですね。
ツツカノーラ: そう、だからそういう人はいつかは分かると思う、心を開いてくると思う。 
ショーカ:  そう。
ツツカノーラ: 例えば近所に引越しをしてきた子がいるのですよ。 それで私がいつも「今日は」と(言ってもその子は)無視していたの。 でも私がずっと「今日は」「今日は」と言っていたらとうとう答えてくれた。 今はもう話をしてくれるようになった。 それがすごく嬉しかったの。 だからいずれは心を開いてくれると思うからずっとあげていたい。 
トコロ: 私はですね、まず(お茶碗に)一杯のご飯があるとしますね。 そしてそれを食べないともう死んでしまうというような時で他にも周りにもそういう人がいたとしたらそのご飯、それを一杯食べたら楽になるのだけどやっぱりそれはしてはいけないと思う。 自分のことを確立すると仰ったけども食べ物ばかりで自分の体がなっていると思わないのですね。 それを少しでもshareすることによってその周りの人から色んなエネルギーを得られると思うのです。 自分がこう愛を与えて、そうするとそこから還ってくるものというのは食べ物よりも大きいと思うのですね。 だから私はそうでありたい、そういうような考えです。 それから怠け者だとか私達から見て働いていないじゃないかという人でもね、それと言うのは自分からみて怠け者であって、本当はその人はそうではないのかもしれない。 そういうときにでも与えてあげると、与えるばっかりがいい事ではないかもしれないけど、その人はそれによって何かを掴むかもしれない、そういう事を期待してはいけないんですよね。 自分からかってに嗚呼あの人は怠け者だ、あげちゃいけないとそういうようなjudgmentは自分には出来ないのじゃないかと思います。
皆さん: (ヨユメさんの様子をみて)♪ヒヤハー ♪ヒヤハー 

トータ: 結局は人のつながりということはあれだね、やっぱり施しを与えてやっぱり自然となるね、そうなってくると。
アナハラセ: 自分が確保するということは足りないという意識がある。 足りないという意識は更に足りなくするわけです。 与えるという事は既に自分はもう持っていると、acknowledgeというかそういう意識がでてくる、持っているから
トコロ: そこに足りないと、パファが言ったようにconditionを作っちゃうのね。 足りないんだと思っちゃうのね。
トータ: ということは人と人とのつながりというのはやはりそういう意味でも繋がっていくわけね。
アナハラセ: 何かよくわからない。
トータ: やはり最終的には人と人との繋がりだから。 やっぱりそれを与える事によって繋がる。 ということで大体結論が出ましたね。 
ショーカ: ヨユメさん!
トータ: 起き上がられたようで
パファ: 我々がこうやって色々話していて、やっぱりこの間ヨユメさんが言われたように絵に描いたでなしに、やっぱり少しずつ行動でね。
アナハラセ: ちょっとでも出来る事があれば
トータ: やっぱり確かに思うのはって言うんだけど、やっぱりやるが如しで無意識のうちに皆さんやっていらっしゃると思うのですよ。 親切心というのはまずその第一の現れだと思うのね。 困っている人がいれば助けてあげるという。じゃ、そういうことで大体話結論がでましたので。 ということで。
トコロ: それでシャクゥはいいのですか?
トータ: シャクゥ、大体そんなもんで。
シャクゥ: なんとなく。
トータ: だから食べ物でなしに、食べ物に限らず他のものでも与えるという
シャクゥ: 例えば、見て仕事が出来る体でありながらいつも25セント、1ドル頂戴と言っている人に対して心の中では何で働かないのかという気持ちが相手に通じる場合もあるのではないかな。 ただ与えれば、お金をあげるだけでは。
本当は体がいいのだから「働きなさい」という一言ぐらいを言ってもいいと思う。
トータ: そりゃ、勿論ね。
シャクゥ: だから場合によったら「頂戴!」と言って25セントあげたら「なんだ!たったの25セントか」なんて。
皆さん: (笑い)
シャクゥ: だから例えばああいう人にお金を?と僕の場合は思うわけ。 お金を与えたのでは何もならない、為にならない。 お金が1ドルにでもなれば行ってビール買えるから
アナハラセ: ビール飲むぐらいの元気があったらねぇ。
シャクゥ: 少し貯まれば必ず買いにくるのだから。
トコロ: でもね、そうだけどね、たった25セントしかくれなかったと思うだろうけど、そのときはそう思うだろうけども心の中に「嗚呼、こんな働けるのに働かない怠け者のような僕にでもそういう気持ちを投げかけてくれる」そういうふうにいつか心の中にそういう種を植え込んでいるのではないですかね。
シャクゥ: 僕には分からない。
トコロ:  そのときは「たった25セントか、なんだ詰まんない」と思うかもしれないけど「嗚呼、そういう人もいるんだなぁ」という「この世の中捨てたもんじゃないんだなぁ」とか「優しい人がいるんだなぁ」とかそういうような気持ちを与えてあげるということは25セント以上のものだと思う。
シャクゥ: いや、だから気持ちは「何で働かないのかな」という、こっちとしては体が元気なのだから、もっともっと弱い人がこの世の中にはいるのだから、そういう人のためにも自分は体を使いなさいと何のための体だという、僕はそういう気持ちなのだけど。
トコロ: 全部が全部そうではないかもしれないけど、K(シャクゥ)さんがみて何で働かないのかなという人にも色々なわけがあると思うのね。
シャクゥ: それはあると思います。
トコロ:  その場でこう決め付けるというのもどうなのかなと思うのね。
シャクゥ: だけど厳しく言うところは言わないといけないのと一緒で例えば突き放すのも(録音はここまで)

ヨユメ: share、分かち合う、皆様がいらっしゃるこの物質世界では分かち合うことを学ぶことが第一です。 

皆様がお話なさっているときに今日はとっても大事なお呼びがあって私は中座いたしました。 大切な方がメッセージを送って来られたのでその為に失礼いたしました。 そのメッセージは次回皆様にお話させてください。 

シャクゥ、そして皆さんが話しておられる最後のほうを聞かせて頂きました。
皆様夫々から色々なお答えがでていましたが、その時にご自身の魂が言うとおりにされたらいいのですよ。 そうでなければ心から施しをしたことにはならないのです。 徐々に徐々にそのようになっていただくように。 
しかし健康でなければお役にたてない、こうこうなったら人様のお役に立ちたいと思われますが、人様にお役に立つための全ての条件はもう既に皆様にはそろっているのですよ。 人様への施しというのは例えば光を送ってさしあげたり、愛をもってやさしい言葉そして笑顔で接するということで、そういったものにはお金はいらないのですよ。 ご自分が健康でなくともそういう事をさせていただくことによって全ての人に幸せを感じてもらえるものなのです。
そしてツツカノーラの言った言葉、挨拶を交わさないお子に諦めずに言い続けていたら遂に心を開いてくださった。 優しいそして明るい笑顔の挨拶はいつでも皆様を幸せにしてくれますよね。
それから食べる物ですが、健康にとってそれはそんなに大事ではなくなるのです。 かと言って子供さんがいらっしゃる場合はそうとは限りませんが。 例えばここに大きなおなべに一杯おいしいスープがありました。 皆様はそれぞれ長いおたまをもっています。 全員がお腹一杯食べられるほどスープはあるのに自分のことばかりを考えているとおたまが長過ぎてご自分の口には入りません。 しかし人様のことを考えるとその長いお玉を使って人に飲んでいただける。 そしていつか自分の口にも回ってくるのです。 
それからひとつ気をつけて頂きたいことがございます。 それはお金が無い、病気のある人のことを欠陥と思ってはなりません。 そういう方や皆様の目から見て怠け者の人がいらっしゃるから学ばせてもらえるのです。 その様な方に手を合わして施しをさせていただき、そして徳を積むことが出来、階段を上がることが出来るのですよ。

ヨユメ: 他に何かご質問はございますか?
アナハラセ: 水の研究をしていまして、ラベルに文字を書きそれを貼って水に文字を見せています。 水は文字の波動の影響を受けるといいますが、サタンというnegativeな言葉を水に見せたときでもきれいな結晶が見えました。 どうしてなのでしょうか。
ヨユメ:  水は波動の影響を強く受けると言いましたね。 確かに波動の影響を強くうけますが、結晶となって出てきた場合、文字から受けるイメージ通りのものでないということもあります。 それは文字も影響をうけるからなのです。 その言葉の音の強さ、それを書いた皆様の想念、そしてその場の波動も文字に影響します。 その文字が持っている波動より強い物があるとそれに影響を受け、出てきた結晶はその文字が持つイメージと異なった物になることもあるのです。

他になにかご質問はございますか?
トータ: 次のテーマは?
アナハラセ: タントーラに聞いてみたら。
タントーラ: 別にありません。
アナハラセ: ツツカノーラ?
ツツカノーラ: 別にありません。
ヨユメ:  皆様特にお持ちでないようなのでそれでは私のお導きにしましょう。
それでは皆様ご機嫌よう。
皆さん: ご機嫌よう。