ヨユメからの伝言 2004年5月07日
皆様、ごきげんよう。
お導きに入ります前にお願いしておきますが、特にパケサー、
パケサ: はい。
ヨユメ: 瞑想会の日にはシャマナに余り沢山ものを食べさせないでください。
パケサー; はい。
ヨユメ: エネルギーといいますか、お腹のほうに集中いたしますとね、降りてくるのが難しくなります。
パケサー:ごめんなさい。
ヨユメ: もっと無理をいたしますと、光子体と肉体の間に亀裂がおこりシャマナの体にも良くないのでね、軽く食べるように言ってください。
パケサー:わかりました。
皆様が色々と討論しておられるのを聞いておりますと、楽しいと言えば語弊があるというか、でもやはり楽しくでしょうね、聞かせていただいておりました。
大事なのはそのように思ったことを思ったままに自由に発言していただくことなのですよ。 そして、今、こうして私がともに討論に参加させていただいてもこのようにお話願いたいのですよ。 でも私がシャマナの体に降りてくると皆様はなぜか緊張される。 シャマナの体を借りて私がいるから緊張される。 さきほども私、ずっといましたのよ。 感じられませんでしたか、オロコイ?
オロコイ: わかりませんでした。
ヨユメ: 右肩のね、すぐ横にずっとおりました。
オロコイ: 私のですか?
ヨユメ:そうです。見えると見えないでそんなに違ってしまうのですね。
それで先ほど討論されていた二つのことですね。
一つは戦地に派遣した兵を引くか否かの話でしたね。 それに対して当然皆様はヨユメからこれが答ですよという答えが出ることなど期待はされていませんよね?
皆さん: はい。
ヨユメ: 先ほど何方かが仰っていたように何も兵の派遣のみならず、全てにおいて何のためにそうするのか? 何かを決断する時に何の為に? 誰の為に? より多くの人の為に。 平和の為めに。 愛の為。 幸せの為に。 喜びの為に。 皆さん方が持っている言葉、知っている言葉の良い言葉、良い波動を持つ言葉、良い波動を生む言葉を思い浮かべてそれを満たす行為であるかどうか。 この行為はより多くの人の幸せに繋がるのか? より多くの人が喜ぶのか、いや、悲しむのか? 悲しむほうでなくて喜ぶ方を取らなければなりません。
そういう風に何かはからなければいけない時はそのように何時も申し上げております愛の物差しですが、 その目盛りの一つ一つには良い波動を生み出す言葉が刻まれていますね。 喜び、幸せ、優しさ。 怒り、恨み、憎しみなどは無いのですよ。 皆様の持たれている愛の物差しの中にある目盛りを一つ一つを当てはめて考えていただく。 とても抽象的な言い方ですが、こういうお勉強を重ねていかれるとそれがわかってきます。
戦地の事が出てきましたので、皆様はThomas Edward Lawrenceという方をご存知ですか?
トコロ: はい。
ヨユメ: 他の方で、何方もご存知ないのですか? イギリスの探検家ですが、トコロだけですか、 知っているのは? どういう方かちょっとお話してください。?
トコロ: 皆さんはその名前を聞いてピンと来ないかもしれませんが、彼はまたの名、アラビアのローレンスと呼ばれています。 第一次大戦のとき彼はアラブの国々の人たちが独立することだけを目的に、アラブの国の人たちのために指導して、独立に向かって色々アラブの人たちを助けた人です。 本当にアラブの人と同じような服装をしてアラブの人と一緒になって戦いました。
ヨユメ: それは本にもなって映画にもなったお話ですよね。
トコロ: はい。
ヨユメ: そのままそのとおりではないのですがね。 それをトコロとシャマナが話していましたでしょう。
トコロ: はい、話していました。
ヨユメ: 話していましたね。 私はそれを聞いてそれでは皆様に馴染みのある方を例にとってお話してみようと思ったのですが。
当時、アラブはオスマントルコの統治下にあったのですよ、400年前。 その前は1300年前と、その時はオスマントルコではないですね。 それでアラブの人たちを集めて決起させてトルコをに向かった。 イギリスが勝利を導いたのではなくて、アラブの人たちを使ってオスマントルコを破ったのです。 もちろんイギリスが助けたのですが、それがアラブを独立させると言う名目のもとに。 しかし独立といってもね、分割されてばらばらにされ、弱体化され弱いものにするのですよ。 そして今のこの戦争のもととなったパレスチナをユダヤに入植させてというようなことをイギリスは行ったわけです。 本当の意味でオスマントルコが強くなっても困るわけです。 そういうことで分割して弱くして治める。
でなければね、“イスラム”というのは平和という言葉なのです。 そしてイスラムの教えは、もとの先生はですね、その教えたるものはナザレのイマニュエルイエズス様も○○○様も同じことを教えておられるのです。 「神のもとには全てが平等である」、「アラーのもとには全てが平等である」これは何方もが教えておられることなのです。 しかしそれが正しく伝わっていませんね。 特に西洋の社会には間違ったもののみが伝わっています。 全ての宗教がそうですね。 何も無いのです、違いは何も無いのです。
そのようにいつの世も一部の人が、一部の人というか、一国が一つの国を分割し、あるいは一つの民族を分割し、弱体化させて統治してきた。 今、米国がやっていることも同じです。 アラブにおいてはフランスだとか、イギリスのほうが古くから関わりがありました。 石油の産出国ということで米国が多く関わってきましたけれどね。 でもそういうことを良くお分かりの皆様に今、何がどうでと言うのはもう無いのですが。
とにかくどんな名のもとで立派な大義名分は掲げられて「アラブの独立のためにイギリスはオスマントルコを打つのだ」、「テロ撲滅のためにアメリカは戦っているのだ」と言っても歴史を見ればそれがすべて嘘だとわかっているのです。 オスマントルコは敗れてその後アラブはイギリスの操り人形と化したではないですか。 操る人が変わるだけです。 そういうところに兵を出し、戦争をする。 どのような大儀名文を掲げようとも戦争は平和の反対でしょう?
なぜそういう戦争をしなければいけなかったのか。 続ける必要は何もありません。 そう思われませんか? アラブだけではないのですよ。 今まで行われた戦争のすべてが悉く名目だけは立派でありながら、じつはその奥にはそうではない目的が隠されて行われた戦争なのですよ。
このように皆様に戦争の話をしてもすぐにどうこう出来るものではない。「ではどうすれば良いの?」と暗い気持ちになったところで始まりません。 決して祈りの力を軽んじてはいけません。 瞑想の折には必ず世界平和を祈ってください。 そしてその世界平和を祈る時に米国が悪いからとか、さきほどパケサーでしたか、米国の大統領をなじっていましたね。
パケサー: はい。
ヨユメ: 立派な方ではないですよ。 だけれど彼ををなじったところで平和は実現しないのです。 世界平和を願えということは世界に調和がもたらせるということですよね。 それをどういう風にしたら祈りの中で実現できると思いますか? 世界平和を祈るということは皆様、どうすることですか?
パケサー: 愛を広める?
ヨユメ: 祈る時にどういうふうに愛を広めるのですか? 今、パケサーは瞑想中です。 そして世界平和を祈ります。 よく私は地球の癒しと世界平和を祈ってくださいと申していますが、皆様はどのように世界平和を祈られていますか? どのように地球を癒されていますか? 今度それを宿題にしましょうかね、トコロ。
トコロ: はい。
ヨユメ: そしてその次のどこまで嘘は許されるのか。 それはもうお答えが出ているようなものですね。 一つの答えは無いのですよ。 おかれた状況状況で違って参りますね。
しかし、いくら真理の勉強をし、沢山の書物を読み、知識があるからと言って、「もう自分が真理に目覚めたから肉体を捨てる時には光の国にいける」と皆様思っていらっしゃるかもしれませんが、これは脅しではないのですが、そう簡単なものでもないのですよ
知っていて実践しない。 知らなければ知らなっかたで通りますが、知っていて実践しない。 それでポンと光の国にいけるはずが無いじゃないですか。 殆どの人がいけないのです。 時間がかかるのです。 その世界を皆様は幽界とか色々な言葉でよんでいらっしゃいますが、肉体を失って魂がすむ世界、光の国に行けないで住んでいる世界。 これは莫大な数の魂です。 ということは殆どの方がその辺でウロウロされるのです。
簡単なようですが、まだまだね、ご精進なさいませんと。 こちらの仕組みがこうなっているとわかっただけですぐさま光の国というわけには行かないのです。
物質世界に執着を持たずに−もう肉体がなくなったのだから物質の世界に執着を持たず−軽くなって光の国に行きなさいと言ってもそんなこといとも簡単に出来るのではないかと思われでしょう。 物質とかに執着なんか持たずに。 それがどうして出来ないだろうと思うのですが出来ないのですよ。 今のご自身の生き方を見て御覧なさい。
パケサーなどは80を超えた、年の順にいけば皆様の中では一番早く実存界に戻って来る人ですよね。 それでありながらこの物質世界の中でも今の自分のおかれた生活を捨てることすら出来ない。 自分にとって何が良いのわかっていながらそれが出来ない。 ならどうして肉体を捨てたとき物質世界への執着を断って光の国に行けるのでしょう? そうは思われませんか?
もっとこの三次元世界でね、色々思ったこと、こうするべきだ、こうした方が良いとわかっていてもできないでしょう。 三次元世界でこうすべきだとわかったことをすることのほうが肉体を捨てて実存界に戻った時に物質世界への執着を絶つよりは簡単なのですよ。 頭ではわかっていてもまだまだ本当の魂の段階でわかっていらっしゃらない。 だからまだまだこういうお勉強をしなければ、私がお導きをしているだけではどうもうまくいかないようですね。
実行に移すということ、実践するということ。 自分は何のために生まれてきて、何をすべきなのか? いま自分は何をしなければいけないのか? 何を決断する時なのか? それがわからなければいけないし、わかっても行動に移せない場合は肉体を捨てて実存界に戻って来てもやっぱり肉体を持って生きている世界の人のほうにしがみついてしまう。 ちょうど今の自分が今の自分の生活を離れられないでしがみつくとおなじようにみんな物質世界にしがみついて重い波動のほうにひきよせられて光の国に行けないのですよ。
そうしますと私は皆様を高い次元にお導すべく降りてきたと申しましたね。 どうも私はその目的が果たせていないような気がします。 まだまだ私も学ばなければいけないのかもしれませんね。
何度も皆様の波動を下げないように、「こういうことは波動をを下げますよ」と言っても理解してくださらない。
例えばね、先ほど戦争、これはどのような理屈をつけても許されるものではないのです。 怖いもので一人一人そのような残酷な性格は持っていなくても戦争が始まる、戦争波動が広まりますと、そして、戦争の真っ只中に身をおきますと、野蛮なあるいは人を苦しめてそれを喜びとするような行為が平気で取れるようになるのです。 それだからこそ今、新聞など、テレビなどで報道されている捕虜虐待ですか、 そんなのはいつでも起こっていることです。 戦争波動の中に入り込めば人間はそういうことをするのですよ。 特に悪い人でなくてもそういうところに身をおく、そういう波動、調和がないのです。 調和の無い波動の中に身をおきますとそうなっていくのです。
それで以前にも申しました、戦争でなくても同じような状況におくものとしてスポーツがあると。 競争なのです、競いなのです、相手を負かすことこそなのです。 そうではなくて「負かすところに意義が無くて、お互いの技、ここまで挑戦するというそれが面白いから、勝ち負けではないのだ」と言う人もいるかもしれませんが、必ず裁定がつくのです。 「あ、これが良く出来た」、「こっちのほうがより良かった」。 そういうことをいつもしていると知らず知らずに物を見た場合、物を経験した場合、今、何かをする時に何を基準に判断するかという練習をしていますが、スポーツ観戦をしたり、自分がスポーツには打ち興じたり、その波動に影響されて何かの時つい裁定を下してしまう。 裁定を下すというのはスポーツにつき物なのです。 そういう癖がつきますと日々の生活において、「あの人はまたそういうことをした!それは許されるべきでない、それはいけない」と裁定をくだす。 そういう波動に身をおいてないと同じものを見た場合「なぜあのひとはそういうことをするのだろう、どうしてそういう考えに至ったのだろう?」と自分が納得できなくてもとそういう考え方をする。 皆様に一時も早く愛の物差しで日々生きていただきたい。 そういうを勉強をしていただくときだからそれを妨げるものは出来るだけ控えていただきたい。 皆様の世界では決して悪いと言われていることではございません。 いつの日か私が言うことが理解いただける思います。 「健康的なスポーツをそのように言うのはヨユメだけだ」と「他の偉い先生がたは何方も言っておられないではないか」と言われるかも知れませんが、ほかの先生方もみな同じようなことを言われたのですよ。 言葉こそ違う。 「スポーツはいけない」という言い方はされていないのです。
今までの私の話で何か質問がございますか?
パファ: 関係ないのですが、アルコールを嗜むのというのは良くないのですか?
ヨユメ: これも一言で良い悪いと言えないのです。 何のために嗜むのか? なぜそれが必要なのでしょう。 本来はそういうものに頼らなくて、例えばアルコールを嗜むのは色々な理由がある。 いらいらした気持ちを抑える役目があるのかも知れない、その人には。
しかしアルコールというのは昔は薬剤として使われました。 今ある化学薬品よりはよっぽど良い薬剤としての役目がございます。 痛みがあるとき痛みを緩和させる、そしてその痛みは肉体的痛みとともに神経を麻痺させますので心の痛みをも和らげる。 そういう意味で薬剤の一つとして存在しました。 そういうことから太古からアルコールは色々な形で存在しました。 今でも使い方によって薬効があるかもしれません。
それをどのように使うかですよね、薬効のみならず。 そうですね、集まりで楽しくする役目があるから。 例えばその力を借りなければ思うように楽しく振舞えない。 しかし、まず薬効があっても程度物として沢山飲むのはこれはよくないとわかっていますね。 それは皆様のからだに不可欠な食べ物さえも沢山食べると全て毒です。 腸内で異常発酵してありとあらゆる病気のもとをつくっています。 そして空腹時に何かを頂く、それは必要です。 それでは「空腹でないときに物を頂くの良いことでしょうか悪いことでしょうか?」という質問と余り変わらないのです。 ですから答えはどのようにそれを使うか?
例えば緊張した集まりを和やかにするためにお酒を振舞った。 集まりでお酒を振舞ったというのは特にまた戦争になりますけれど、戦いをしてある種族がある種族を打ち負かして征服したとき「これからお前たちと仲良くやっていこう」、「自分たちのもとに入るけれど仲良くやっていこう」といったときに酒が振舞われたのです、儀式にね。 一つの証しとして「これからは仲間としてやって行こう」、 「もうさっきまで戦ったあの敵、味方という意識を忘れて和やかにしよう」、「さっきまでのことは忘れよう」。 そういう風な役目に使われたことがあります。 そういうことで色々な意味でアルコールが儀式に使われるようになった。
どのようにするかということでそれは変わって参ります。 万人に害があるものというわけではないです。 これで答えになりましたか?
パファ: はい。
ヨユメ: 他に質問はございますか?
難しいですよね。 このように私が申しましても実際に皆様には日々ありとあらゆる誘惑があり、そしてまだ肉体を持って生きておられるわけですからね。 私自身は肉体を持って生きた事はあるもののもう久しいものですからつい肉体を持って生きたそのときの事がもう理解できなくなってきているのでしょうか。
皆様を見ていますと「あ、まだそういうことをしている、なぜわからないのかな」と思って情けなくなるときがあるのですよ。 それで、実際、情けなくなった私はもうお導きに来たくないと思ったことがありまして、降りて来れなくなった時期がございましたよね。 でも私は皆様と共に、私も学びの身ですからともに学んで参りますが、厳しいものがありますよ、光の国に行くということは。 皆様の頭では自分は光の国に行けると思っているが、しかしそうではないということ。 精進なしでは行けないのだと。
もう質問はございませんか?
それでは皆様ご機嫌よう。