Yoyumeからのメッセージ   2004年10月01日 

 

皆様(みなさま)、御機嫌(ごきげん)よう。

皆さん: 御機嫌よう。

 

ヨユメ: 今日(きょう)の宿題(しゅくだい)となっておりました「波動(はどう)の悪(わる)いところは避(さ)けるべきか否(いな)か」についての議論(ぎろん)ですが、私(わたくし)が改(あらた)めてお導(みちび)きでお答(こた)えを出(だ)すことは本当(ほんとう)に必要(ひつよう)は無(な)いのでございますよ。 もうお答(こた)えを知(し)っておられるというのではなく、もう既(すで)に以前(いぜん)のお導(みちび)きで何度(なんど)もお答(こた)えを差(さ)し上(あ)げております。 

今日(きょう)の宿題(しゅくだい)のお答(こた)えは既(すで)に差(さ)し上(あ)げてあることさえもお気(き)づきにならないというのはまた、いつも私が申(もう)し上(あ)げております、私のお導きをただのその場(ば)の知識(ちしき)として「なるほど、なるほど」と聞(き)いては下(くだ)さいますが、ご自分(じぶん)のものとなさっておられない証(あかし)でございます。 

今(いま)までのお導(みちび)きの中(なか)から再度(さいど)お答(こた)えをお探(さが)しくださいな。

 

そしてですね、一(ひと)つだけ付(つ)け加(くわ)えておきたいと思(おも)いますが、波動(はどう)の低(ひく)い人(ひと)、高(たか)い人(ひと)というのはございません。 敢(あ)えて申(もう)しますならば波動(はどう)が下(さ)がっている時(とき)が多(おお)い人(ひと)を波動(はどう)が低(ひく)い人(ひと)と呼(よ)んで宜(よろ)しいかと思いますが、皆様(みなさま)も日(ひ)に日(ひ)に、そして一日(いちにち)の中(なか)でもその時々(ときどき)、ひどい時(とき)は刻々(こっこく)と波動(はどう)は上(あ)がったり下(さ)がったりしているのです。 

波動(はどう)はすぐさま光(ひかり)となって、皆様(みなさま)の良(よ)くご存知(ぞんじ)の言葉(ことば)で言(い)いますとオーラとして私(わたし)たちの目(め)からは簡単(かんたん)に識別出来(しきべつでき)る光(ひかり)となって現(あらわ)れます。 残念(ざんねん)ながら皆様(みなさま)にはその色(いろ)が識別出来(しきべつでき)ない。 ご自分(じぶん)の波動(はどう)がその都度(つど)、色(いろ)で識別出来(しきべつでき)たなら、或(ある)いは人様(ひとさま)の波動(はどう)が色(いろ)で識別(しきべつ)出来たなら便利(べんり)でもございましょうが、それではまた学(まな)びにはなりません。 そういうことで一応皆様(いちおうみなさま)には見(み)えない物(もの)となっているわけです。 

波動(はどう)が光(ひかり)となって、そしてその光が幽体(ゆうたい)に影響(えいきょう)を与(あた)えますと気(き)、気(き)という形(かたち)でまた皆様(みなさま)の肉体(にくたい)に影響(えいきょう)を及(およ)ぼします。 その様(よう)に回(まわ)り回(まわ)るものなのですよ。 お互(たが)いに影響(えいきょう)し合(あ)うのですね。 皆様(みなさま)の放(はな)つ波動(はどう)、その光(ひかり)が勿論(もちろん)人様(ひとさま)に与(あた)える影響(えいきょう)もさることながら、ご自分(じぶん)に与(あた)える影響(えいきょう)も考(かんが)えますと、それだけでもやはり高(たか)い、貴(とうと)きものに波動(はどう)を合(あ)わせて生(い)きるようになさらなくてはなりませんよね。 

 

しかし、波動(はどう)の低(ひく)い人(ひと)、高(たか)い人(ひと)は無(な)いと申(もう)しましたが、波動(はどう)の低(ひく)い場所(ばしょ)、高(たか)い場所(ばしょ)というのはございます。 しかしそれとて高(たか)いところが何時(いつ)までも高(たか)く、低(ひく)いところが何時(いつ)までも低(ひく)いというのではありませんが、そういう場所(ばしょ)の波動(はどう)というのは皆様(みなさま)が発(はっ)される波動(はどう)のように刻々(こっこく)とあるいは日(ひ)によって変(か)わるものではございません。 

先(さき)ほど皆様(みなさま)はアナハラセの写真(しゃしん)を見(み)ておられましたね。 あのお山(やま)の波動(はどう)は私、以前(いぜん)にもお話(はなし)したことがあるかと思いますが、波動(はどう)の高(たか)いお山(やま)でございますね。 

そのように場所(ばしょ)によって波動(はどう)の高(たか)い、低(ひく)いはございます。 

先(さき)ほど皆様(みなさま)のお話(はなし)にラスヴェガスという名前(なまえ)が出(で)ておりましたが、たまに遊(あそ)びに行(い)くだけならそれも良(よ)いではないかとか色々(いろいろ)でておりましたが、紛(まぎ)れも無(な)くあの煌(きら)びやかなネオンをつけてしても消(け)すことの出来(でき)ない黒(くろ)ーい光(ひかり)、光とも呼(よ)べない色彩(しきさい)の渦(うず)が、大(おお)きな渦(うず)が舞(ま)っていましてね、すぐにわかるのですよこちらからは。 よく、そして単(たん)に娯楽(ごらく)だけの軽(かる)い気持(きも)ちで行(い)かれている方(かた)も多(おお)いのですが、そういった賭博(とばく)を娯楽(ごらく)として楽(たの)しいと思(おも)えるのは、やはり賭博(とばく)の波動(はどう)というのは宜(よろ)しいものではございません。 

その様(よう)に場所(ばしょ)とか、一定(いってい)の場所(ばしょ)ではないのですが、流(なが)れる地下水(ちかすい)のもつエネルギーによって道路(どうろ)のように、線(せん)のように悪(わる)い波動(はどう)が走(はし)っている地帯(ちたい)というのもございます。 

例(たと)えばお話(はなし)を分(わ)かり易(やす)くするためにこういう場所(ばしょ)は本当(ほんとう)に黒(くろ)ーい光(ひかり)が渦巻(うずま)いております。 それは闘牛(とうぎゅう)というスポーツというのがございますね、ご存知(ぞんじ)でしょうか。 闘牛場等(とうぎゅうじょうなど)の波動(はどう)はとても悪(わる)うございます。 

 

お水を。

シャマナはどうしたのでしょう。 どこかへ行(い)ってしまっております。

 

お導(みちび)きを続(つづ)けましょう。

動物(どうぶつ)は人間(にんげん)と違(ちが)いまして自然死(しぜんし)した場合(ばあい)は紛(まぎ)れも無(な)く動物(どうぶつ)の光(ひかり)の世界(せかい)に参(まい)ります。 しかしたまに闘牛(とうぎゅう)のようにああいう形(かたち)で死(し)を迎(むか)えた動物(どうぶつ)というのは調度多(ちょうどおお)くの人間(にんげん)のように死後(しご)すぐに光(ひかり)の世界(せかい)に戻(もど)れないのですよ。 そういうふうに最後(さいご)を遂(と)げた動物(どうぶつ)の霊(れい)の、何(なん)と申(もう)しましょうか、人間(にんげん)の持(も)つ波動(はどう)とはまた違(ちが)った影響力(えいきょうりょく)のある、霊性(れいしょう)を起(お)こすに十分(じゅうぶん)なエネルギーを持(も)ってそこに停滞(ていたい)します。 霊性(れいしょう)という言葉(ことば)は以前(いぜん)お話(はなし)したことがありますね。 勿論(もちろん)、光(ひかり)の国(くに)に来(こ)られなかった沢山(たくさん)の人間(にんげん)の霊(れい)が一番多(いちばんおお)く皆様(みなさま)の世界(せかい)に影響(えいきょう)を与(あた)える霊性(れいしょう)を起(お)こしておりますが、同時(どうじ)に自然(しぜん)ではない死(し)を遂(と)げた動物(どうぶつ)の霊(れい)が所謂(いわゆる)、動物霊性(どうぶつれいしょう)をおこします。 そういう意味(いみ)で動物(どうぶつ)が無残(むざん)に殺(ころ)されるような場所(ばしょ)というのは決(けっ)して良(よ)い波動(はどう)を持(も)っておりませんのでそういう所(ところ)はやはり避(さ)けることが出来(でき)たら避(さ)けるべきなのです。 お分(わ)かりですね。 

そういう意味(いみ)で波動(はどう)の良(よ)い場所(ばしょ)、悪(わる)い場所(ばしょ)というのはございます。 そういう場所(ばしょ)でも何時(いつ)までも何時までも何百年(なんびゃくねん)たってもそうかと言いますと、そういう動物霊(どうぶつれい)でもあちらで悟(さと)れば動物世界(どうぶつせかい)の光(ひかり)の国(くに)に行(い)けるわけでございますから、永久的(えいきゅうてき)にと言うわけではございません。 しかしそういう場所(ばしょ)についた霊性(れいしょう)とか、あるいはそこに定着(ていちゃく)した波動(はどう)というのは変(か)わるのに大変時間(たいへんじかん)がかかるものなのです。 

 

この宿題(しゅくだい)に関(かん)しての質問(しつもん)はもうございませんですか。 

もう一度(いちど)、今(いま)までのお導(みちび)きを調(しら)べていただいて、差(さ)し上(あ)げた答(こた)えを探(さが)してきていただくということで宜(よろ)しゅうございますね。

 

それでは今日(きょう)は本当(ほんとう)はお三方(さんかた)に個人面談(こじんめんだん)によるお導(みちび)きとなっていましたが、それはちょっと無理(むり)だと思(おも)いますので、今日はトコロだけにしておきましょう。 トコロには急(いそ)いで申(もう)し伝(つた)えねばならないこともございますので。

 

それではトコロの個人面談(こじんめんだん)によるお導(みちび)きの前(まえ)に何(なに)かご質問(しつもん)がおありでしたらお受(う)けいたしますが。 何(なに)かございますか?

アソウ: お聞(き)きしていいですか? Yさんの手伝(てつだ)いに行(い)っていますが、彼女にはcancerがあるのでRadiationとかキモセラピーをするというふうに言っているのですが、やはりそれでいいのですか? それともBaguioに治療(ちりょう)に行(い)ったほうがいいのですか?

ヨユメ: Baguioに治療(ちりょう)に行(い)った方(ほう)が良(よ)いと言(い)っても聞(き)く方(かた)でもありませんし、ご自分(じぶん)のやり方(かた)でしか何事(なにごと)もなさらない方ですから。 アソウがお勧(すす)めすれば聞(き)かれると思(おも)うのですか? 

アソウ: ?

ヨユメ: ご自分(じぶん)でそのように人様(ひとさま)のお勧(すす)め下(くだ)さる事(こと)には耳(みみ)を傾(かたむ)けない。 そういうこともあってこの病気(びょうき)でございますよ。 ご自分(じぶん)で作(つく)られたご病気(びょうき)は自分(じぶん)で治(なお)さなければねぇ。

 

ヨユメ: 他(ほか)に質問(しつもん)はございますか?

トコロ: ヨユメさん、今日はメユヨンさんはいらっしゃいますね?

ヨユメ: いらっしゃっておりますね。 今(いま)、こう仰(おっしゃ)っておりますよ。 「先日(せんじつ)、おしろいの匂(にお)いがしたので私(わたし)が来(き)ていると皆様(みなさま)、仰(おっしゃ)っているが、あのおしろいの匂(にお)いは私(わたし)ではございません」と。 お友達(ともだち)をお連(つ)れになっているのですが、「そのお友達(ともだち)のお母様のYasukoさまのおしろいの匂(にお)いでございます」と。 「ですから昔(むかし)のおしろいの匂いでございました」そうです。 どうでも宜(よろ)しいことですが、あのようなおしろいはお使(つか)いになっていないそうで、笑(わら)いながら、「どちらでも良(よ)いのですが、私ではございません」と仰(おっしゃ)っています。

 

それではトコロ、宜(よろ)しいですか?(個人面談(こじんめんだん)によるお導(みちび)きが始(はじ)まった、そして個人面談後、そのままヨユメ様は帰って行かれた。)