Yoyumeからのメッセージ   2004年12月17日 

ヨユメ: みなさま皆様、ごきげん御機嫌よう。
皆さん: 御機嫌よう。

ヨユメ: トコロ、今日はどの様なかたちでお導きを進めていきましょうかね?
トコロ: 今日は取り立ててテーマが無かったのですが、前回の宿題を話し合っておりました。 それでそれについてもしヨユメさんがこういう事を付け加えたらとか、お気づきの点があれば仰っていただけますか?
ヨユメ: 先ほど話し合っておられたことでございますね?
トコロ: はい。
ヨユメ: 私がそれを宿題にと申したのですよね。 でも、まあ宿題と呼ぶにも足らないような、本当に基礎的なことでございますが。 
仰っておられことは−皆様の−何の間違いもない。 そのとおりなのでございますが、いつも申しますようにお答えはもっていらっしゃるのです。 なさるのは別問題ですよね。 
そこで気がつきましたことはこういうふうに考えて、こうして差しあげるべきだというのは皆様、理屈として理解しておられるのです。 分かっているのに尚、出来ない。 そしてそれがどうして出来ないのかもわかっておられる。 
なにもこの宿題に限ったことではございません。 全て、こうしたら良いと分かっていながら出来ない。 それをね、もう少し掘り下げて、どのようにすれば少しずつ出来るようになるかというお話をしていただきたかったのですよ。 
そして、私ならこうします。 このようにしていますとお客人は申しておられました。 実際、その様にされているのなら立派なことでございます。 
してあげなければ、教えて差しあげなければいけないのに出来ないのも自我ならば、「私はこうしてその方の為を思って、やってあげている!」と思う心も同じく自我だという事をお忘れになっていらっしゃる。 よ―く考えて見てくださいね。 迷いながらどうしたものか、私の持っている愛の物差しで測った場合、言って差し上げた方がいいと思って、つい、言ってしまった。 それには自我は入っていないと思うのですよね。 しかし、ご自分の持論として、「私は常にこう信じ、こう思って、こうしているのです!」と自身を持って仰るところに私は自我を見てしまいます。 
私の言うことをお分かりいただけますか? 相反することのようですが。
Eさん: よーくわかります。 そこが何時も悩む。 一日の終わりで自分の言った言葉がどこから発生したかということを考えると、その言われる意味がよーく、本当に分かるような気がします。 有難うございます。
ヨユメ: 皆様の世界では全てがプラス、マイナス、白黒、良いこと悪いことというふうに、何と言いますか、先ほど裁定を下すとお話されていましたが、全てにその様に右左、高い低い、良い悪い、こういう裁定をされているのですよ。 我々の世界では右も左もございません。 皆様の次元では縦横、時間、距離、空間−限られた空間−を意識して生きておられますので右、左があるのです。 宇宙には右というものはございません。 右は即ち左でございます。 皆様は今、現在と言うのを正しく理解されていないのですね。 いつも私が申しますように皆さんの今は一分後には過去でございましょう。 そのように今も過去も現在も未来も同時に存在しているというお話を何度も申し上げましたが、 感覚的に捉えるには難しすぎるのですよね。 
それ故に愛の物差しを持って、その物差しを使って、測ってと何時も申しておりますね。 その物差しには目盛りがございますね。 その目盛り一つ一つのお話もしたと思います。 皆様方の定規のように等間隔で目盛りが付けられているのではございません。 皆様、こちらにいらっしゃる9名の方がお顔がそれぞれ違うように取り出して使う愛の物差しの目盛りも使う相手の方によって目盛りが変ってまいります。 それを「私はこのように判断し、こう思っているのでこうするのです!」という場合はその方の愛の物差しの目盛りはその方に付けたものでございます。 ご自分の付けた目盛り、ご自分の作った物差しで測ってしまうことになるのですよ。 愛の物差しには取り出したときに初めて目盛りが刻まれるのです。 皆様が付けた目盛りでない、その方に当てはめようとする皆様の心の中から湧き出るその方への想い、本当の愛が付けた目盛り、それを使うわけです。 
ですから、どうしていいか分からないという迷いは優柔不断なようですが、ある意味で一生懸命ご自分の愛の物差しに愛の目盛りをつけようとされているのです。 その都度、どうしていいか分からない。 例えば同じ事をご自分のお子達にさえも親として、「こうこう、こうしてはいけませんよ!」と強く叱ることが出来たのに、もう一人のお子さんにはそれが出来ないということがあると思うのですね。 それを皆様の世界では一人の人にこう言ったら、同じようにその様にしなければ不公平だというお答えになる事が多うございます。 一応の基準を持つて躾けられるということは大切なことでございますが、そこにはそのお子達、一人一人の性格、おかれた状況、そのお子さんが持っていらっしゃるその想いなどを考えに入れていないことが多うございます。 

それで、皆様の目に愛を持った行い−愛を持った行為−というのは暖かく感じられるものでございますよね。 
先ほどお話しておられましたね。 その時は理解してもらえないかもしれないけど、本当に愛を持ってしたなら、いつかは理解してもらえるものだと。 そういうものでございます。 
只、皆様ご自身の精進の度合いによりましてね、言葉を変えますと、皆様の波動の高さによりまして、夫々の愛というのは、何も語らずとも強い愛の波動をもっておりますし、そのオーラというものは皆様の体を覆って出ております。 しかし、大概の人はそれを見ることが出来ませんね。 言葉に惑わされてはいけません。 その方が、ある方が、皆様方に対して行って下さる行為が親切で暖かで優しいからその方が愛に溢れた方だと思いたくなるのはよおく分かりますが、それが一番、一般に陥りやすい過ちなのでございます。 ご自分の周りの方、お知り合いの方、お友達、ご家族には本当に心を尽くして親切にされる方、愛のある方だと評価されておりますね、皆様の世界では。 しかし、本当に愛のある方というのはそうは見えない、皆様の世界ではそうは見えないことがよくございますのそのあたりも頭に入れておいてくださいよ。 でなければとんでもない間違いをしてしまいます。 ご自分の周りの方には細かく、心砕いて親切にされるのに通りがかりの見知らぬ人には無関心、笑顔も返さない、関わりの無い人として通り過ごしてしまう。 本当に愛のある人というのはご自分との関わりの在る無しに関わらず、接する物全てに愛を放つ。 愛というのは何時も存在している物でございます。 出したり、引っ込めたりする物ではございません。 ましてや人によって使い分ける愛などは偽物でございますよね。 

とっても厳しいことを申しますが、もう何年も私と学んで来てくださった皆さんです。 これからは私がお導きしますことは今までお教えしてきたお導きの中で学ばれてきたこととは「あれ?反対ではないか?」、「今まで教えて下さったこととは違うではないか?」と思われるかもしれません。 後でよーく考えてみてください。 今までのお導きを越えて更に皆様にお教えするとなるとこの様な形になります。 
私が今、申し上げようとしていることがお分かりいただけましたでしょうか? それともやはり今までのように基礎的なお導きに戻った方が宜しいのでしょうか? どう思われますか?
パファ: 両方を混ぜて教えていただきたいですね。 時々、我々基礎を知っていながら忘れたり、思い出さなければいけない時がありますので。
ヨユメ: そうですね。 それでは基礎的なことはトコロが認めてくれておりますね。 ご自分でお読みになれる方はそれを読んで、ご精進なさってください。 
本来は今まで私が皆様にお導きして参りました事を皆様方から「私はこのようにお教えいただいたのですが、このあたりがどうも正しく理解できておりません」とか、「このように日常行おうとした場合、こういう問題が出て参ります。どの様に克服すれば宜しいのでしょうか?」とか、その様なことを本来私は期待しておりました。 その様な質問が出るわけでもございませんし、同じ事を繰り返して、基礎的なお導きをするわけにもいきません。 色々皆様と共に議論もいたしましたね。 どんな物でしょう。

Eさん: 一つ質問があります。 
ヨユメ: はい、どうぞ。
Eさん: 最後に私がここに来たとき、だいぶ前でいつか憶えてないのですが、その時に言われたことがとても気になっているので質問しますのでお願いします。 
一人で住んでいる人はまあ、はやく言えば良くない。 誰かと一緒に住んでお互いに良い意味で犠牲を払うなり、シェアするなりして生きて行くほうが良いというようなことを言われたんですね。 それを聞いたときに私は質問したかったのですが、時間が無かったのか、ちょっと理由は憶えて無いんですけど、しなかったのです。 
私は一人で住んでいます。 そしてその言葉を聴いたときに私は色々、活動しています、ヴォランティアが殆どなのですが。 それを本当にしたいと思うときに一人でdecision makingして出来るほうが人の為、世のためになる、大袈裟な言い方なのですが。 今はそういうふうに色々出来るように動いているのですが、もし誰かと一緒にいたら自分の行動が100%発揮できない時もあるのではないかと。 二人なり、十人なりで一緒に生活しているより一人で生活している方が良くないというふうにnegativeに聞こえたんですね。 どうしてでしょうか? 両方にもさっき言われたように良い所、悪いところ、レベルの低い話かも知れませんが、必ずしも黒白ではないんではないでしょうか。 私にとっては結婚しない理由というのもそういうのが少し入っているのではないかと思うのですが、consciouslyにもunconsciouslyにも。
ヨユメ: よく分かりました。 とってもいいご質問だと思いますよ。
Eさん: 有難うございます。
ヨユメ: 良い、悪いという意味で申し上げたつもりはございません。 良い、悪いというのは無いのです。 
Eさん: そうですね。 レベルの低い私がそういう風に感じたのだと思います。
ヨユメ: いえ。 こういうお勉強をされていくときにね、あの時、私はパケサーにそれを申したのだと思います。 そうでしたね。 
パケサー: はい。
ヨユメ:  一人で気楽に生活されている方が長い逗留をされるお客様がありますとね、疲れますよね。 そういった時につい愚痴も出る。 そういう事に対して言ったことですが、そういう機会を与えられたことを。 お一人では出来ない、人様と一緒に生活するからこそ出来る学びがある。 その機会を与えられたことを喜ばなければいけないんだ。 そして、今、いみじくも申し上げられました一人だからこそ出来る、要するにお一人が一番気楽なのですよ。 例えばどんなに立派なことを外でなさっておられてもお家に帰ってこられましてお一人ですと気を使う相手もおりません。 ご自身のしたい、眠りたいときに眠り、ご自身のお腹だけ考えて食べたい時食べればよろしいが、人様がいらっしゃるともう既にご自分に対するものを考えるのは半分で、も一人の人がいれば半分で、もう一人の方のことを考えなければいけない。 ご家族がいれば、小さなお子達がいれば尚の事。 お年寄りの面倒をみておられれば、ご病気の方がおられれば。 
そして、あまりこちらに来られてないので無理の無いご質問と思いますが、ずーっと私のお導きを順序だてて聞いていただいてますと霊的進化というものは自分の我、私が何かをしたい、私はこうする、たとえその目標が立派な物であっても何時も「私が」なのですよ。 どれだけ私を無くして行けるかが精進なのでございます。 ナザレのエマニュエルイエズス様、ゴーダマシッタルダー様のように、ご自身を全部捨てて人様の為とは申しませんよ。 とてもそれは出来ることではございませんよ。 
そうなりますと一人でいる方はそのような学びをする機会がうーんと少なくなります。 そして一人でいることこそ楽で、気が楽で楽しいとそれを喜びと感ずるようになれば危険信号だと申し上げたのです。 
Eさん: それはよーくわかります。
ヨユメ: まして、人様への奉仕を生きる励みとしておられる方なら、人様の喜びがご自分の喜びと出来るのならば、周りに人がいらっしゃることは励みにこそなれ、負担になってはおかしいはずなのでございます。  一人でいるからいけないと言っているのではないのです。 一人でいて学ぶ学びもございます。 
それでお答えになりましたでしょうか?
Eさん: はい。 そうと思います。 私がそういう出会いで一緒に出来るだけしようと思った人達からエネルギーを私、頂いていると思います。 そのお返しが出来るようにと思っています。 ありがとうございます。

ヨユメ: 他にご質問はございますか?
トコロ: 宜しいですか?
究極的というのか、貴方はもう一人の私である、そしてそこにある石ころでも、虫でもとにかくそれももう一人の私であるというふうになれば本当に精進したと仰いましたが、特に人なんですけどね、よくわからないんですけど、その人の違いがみえるから学べると言うところもありますよね。
ヨユメ: 違いは違いとして認めることを学ばねばなりませんよ。
トコロ: はい。
ヨユメ: 違いは厳然としてあるのですよ。 例えばこうしましょう。 手を広げてみてください。 親指と小指、同じ形をしていますか? そして果たす役目も違います。 小指がする役目、親指がする役目、これは完全にちがうのです。 人差し指、中指、夫々違います。 この違いは認めていいのですよ。 あっ、親指はこういう働きをするんだね。その様に以前、私は皆様の体の中の頭、胃袋、腸、夫々の働きでお話しましたようにトコロが大木の根なら、パケサーは葉っぱ、そしてアソウは枝です。 枝はパケサー−葉−を支える役目をしています。 その沢山の枝を支える幹がある。 そしてその幹を最後に支える根がある。 それは一つ一つ違う物なのです。 その違いを知ること、それはとても大切なことでございます。 そして一つ一つ、役目の違いから学ぶ、「嗚呼、一生懸命根が支えてくれているから私達幹はこうしてのんびり出来るのだ」と、例えばそのように。 それは違いを知ることです。 
ですが、悪い例として、皆様方の日常はこういう形なのですよ。 根が「私があるからこの木は立ってられるんだ」、「根が下でしっかり支えているから私が一番偉いんだ」と思う。 そうすると幹は「何を言っているんだ!幹が根に栄養素を持っていくからお前は生きていられるんだ。私なしでお前は生きていられないんだ。だから私の方が偉いんだ」。 そうすると葉っぱを「葉っぱだから、枝の先についている葉っぱなどはどうでもいい、どうしようもないものだ」と幹とか根は思うわけです。  そうすると葉っぱは葉っぱで「何を言っているんだ!光り輝く太陽の光を受けて栄養のもととなるもの、それは私から、私なくして造られないんだ」とそういう風なことで自分が一番大切だ、自分が一番正しいんだと思って争っているのが皆様の世界でございます。 
違いを知って、お互い有難く思って助け合っていく。 「私はこの人がいるから支えられて生きていられるんだ」と思うこと。 そして葉っぱも枝も幹も一本の大木だ、その全ての一部である。 貴方も木なのです、私も木なのです、彼も木なのです。 全ては一つなのです。 そういう意味で貴方はもう一つの私です。 存在する物全ては宇宙であり、ご大霊であり、ご大霊の一部であり、またその全てであるのです。 分かっていただけましたか?
トコロ: はい。 木のところでよーく分かりました。
ヨユメ: 違いがあるからこそ学べる、そのとおりです。 その気持ちは、ということは相手の方も尊敬するというのは学ぶことですよね。 それは違い、ご自分に無いものをもっていらっしゃる、それをそこから学ぶ。 そしてね、およそ尊敬できるような行いではなかったとしてもその過ちから学ばせていただいたのは貴方なのです。 その時にその方を詰ってはいけませんね、波動が落ちます。 「どうしてああいうことをされたのだろう?」、「どうしてああいうふうにされたのだろう?、私ならこうはしないだろうになぁ」と思うことは悪いわけではございませんよ。 宜しゅうございますか。

他に質問はございますか?
Eさん: 自分自身のことの質問なのですけどいいでしょうか。 
ヨユメ: 結構でございます。
Eさん: 有難うございます。 私の守護霊、guidanceですか、誰だか、何と言うのか、わかるようでしたら教えていただきたいのですが。
ヨユメ: 先ずね、誰という言葉は皆様はとっても擬人的と申しましょうか、人、例えばこういうことを期待しておられるのでしょうか? 貴方の守護霊様は例えば日本のかつて存在されたこう言うお坊様でしたとか。 どこどこのお殿様でしたとか。 そういう人、そういう意味のことですか?
E さん: よく分からないのですが、バラがそのようなふうな、私にとって感じるんです。
ヨユメ: バラ、お花のバラ?
Eさん: はい。 それと土。  
ヨユメ: そういう自然霊が皆様方の守護霊であり得るということはございません。 自然霊というのは多くの場合、シャマナが小さいとき見たように妖精のような形で現れます。 人間の守護霊になり得る事はございません。 
それと指導霊、それは皆さん夫々たくさん持っていらっしゃいまして、守護霊様は貴方様が生まれたときから実存界に帰られるまでずーっと一緒でございますよ。 指導霊というのはその時−必要なとき−についてくださる。 長年付いてくださる指導霊もあれば、こういう状況においてこの様な手助けが必要だから付いてくださる指導霊、増えたり、減ったりというふうにその折々、違った方が付いて下さることがございます。
Eさん: 言っておられる意味がよく分かるような、指導霊の、とてもよく分かります。
ヨユメ: とっても強い指導霊団がついて下さっております。 
ただ、守護霊様が何方かということはお教えする意味も無ければお許しも出ておりませんので申し上げられませんが、ただ、守護霊様が貴方様にいつもメッセージをお送りしておられるそうですが、貴方ご自身の我が邪魔をして、守護霊様がお伝えしたいようには取って頂けないと仰っております。 
瞑想のやり方を変えてみられるとかなさって、守護霊様と直結される方法を早く会得なさった方が宜しいと思います。
Eさん: そのようにするにはどうしたらいいでしょうか?
ヨユメ: その瞑想のお話だけでもお導き一つになりますのでまたの機会に。 また、かの地で皆様と話し合っても宜しいではございませんか。
Eさん: ただ、誰か、何かわからないのですが、ただ、御礼をしたくて。 そのメッセ−ジを伝えてください。 
ヨユメ: 守護霊様は貴方の命を三度助けておられます。
Eさん: 二回は分かり・・、三回あったかもしれません。
ヨユメ: 一番最近は交通事故だそうでございます。 ですから貴方様はまだ生きなきゃいけない。 生きて果たさなきゃいけない使命がおありだそうでございます。 ご精進されてくださいとのことでございます。
Eさん: 有難うございます。 一生懸命出来る様にこれからもお導きください。

ヨユメ: 他にご質問が無ければ、それでは皆様、ご機嫌よう。