人生を歩んで行く上で、大きなことにせよ、小さなことにせよ、各個人には常に選択肢が与えられている。「判断の基準」の章では、その選択が、他人を喜ばせ役に立つものであるかどうか、それとも他人を傷つけるものであるかどうか、を考え、愛を基準に判断することが大切とある。
しかし、ここで云う「裁定」とは、それらの「選択」や「判断」とは意味が異なるものである。ここで云う「裁定」というのは、「決めてかかる」ということだ。
決断力があることはよいことではあるが、物事を初めから決めてかかることはよくない。
「どうせこうなるのではないか」と憂慮が先行して、行動に移さなかったり、「あの人はこういう人だから」とチャンスを与えなかったり、「これはよい、あれはよくない」、「こうすべき、すべきでない」と条件をつけることも「裁定」に含まれる。
人間誰もがこうした裁定を無意識のうちに行っているものだ。
これを英語では、JUDGEMENTという。選択とか決定とは違う。
この世界には静的なものは一つも存在しないのである。エネルギーは絶えず交換されており、草木は成長し、人間も成長する。
例えば、今「この人は自分よりも劣る人間だ」と思っても、次の瞬間にはその人はあなたよりも成長しているかもしれないのだ。
だから、「この人はこういう人だ」とか「この出来事は悪いことだ」というような、現時点で裁定してラベルを貼ることが、どういうことかは自明のはずだ。
それがわかれば、どのような人からも、どのような出来事からも、学ばせていただくという謙虚な姿勢が大切ということになる。 裁定をくださないとすれば、物事はありのままに受け入れるしかない。これは、宇宙で起きている事象は、森羅万象の法則に基づいて必然的に起こっているという前提を肯定することに他ならない。物事が思い通りにならずにありのままの事象を受け入れられないことは、宇宙と格闘しているのと同じことなのだ。