多くの人が、「宗教」という定義を誤解している。
それは、ある特定の宗教法人が、税金対策のために組織化したものだったり、組織を正当化し、維持するために、人を洗脳する手段として使ったものであったからである。
では「宗教」とは何であろうか。
かの次元からの教えによれば、「宗教」のもともとの意味は、「世のため、人のために生きること・奉仕すること」であるという。
われわれの世界の国語辞典に書いてある「神仏を信仰・尊崇することによって心の安らぎを得ようとすること」とは解釈が違う。
それどころか、現代の宗教の多くは「教義によって人を縛りつけること」をモットーとしているようにさえ見える。
それでは、「教義」とは何であろうか。
彼の次元の解釈をご紹介しよう。
「教義」とは「ある特定の団体が信じている、または教えていることを真理として認めたもの」と定義している。
だから、宗教団体が「教義」として教える真理は、霊的真理とは異なるのである。
しかし、この霊的真理を自宗の教義として教えている、本当の意味での「宗教」(人に奉仕すること)を広めている宗教団体も中には存在するようだ。ところが反対に、霊的真理(SPIRITUALISM)を教えると云いながら、税金対策のために宗教法人化し、教義で人を縛り付けている団体も多々あるのは事実である。
大切なのは、「何と呼ぶか」、「何を信じるか」だけではなく、「どう考え、どう行動し、どう生きるか」なのだ。表向きのラベルで判断せず、中身がどうであるか見抜くことだ。そして、中身がどれほど立派でも、知っただけではダメで、実践されなければ意味がない。
ここでよい詩をご紹介しよう。
「歌は歌ではない、口ずさむまでは。
鐘は鐘ではない、鳴らすまでは。
愛は愛ではない、行うまでは。」
行動には失敗はつきものである。また、時間と労力もかかる。しかし、それを恐れていては、いつまで経っても実行に移せないのだ。
慎重なのも結構だが、慎重になりすぎると、それは「行動しない言い訳」にしかならなくなる。
知識として習った霊的真理を一つ一つ実践していくその積み重ねのことを「精進」というそうである。
「人のためにつくす」はずの宗教団体が、他の宗教団体と争って、人を平気で殺したりしている世の中であるが、霊的真理(SPIRITUALISM)を一人でも多くの人が学んで、一日も早く自然と調和した、本当の意味での宗教(人のためにつくす)に基づく、真の幸福を分かち合える世の中ができることを祈りたい。