真理のものさし

保険金を目当てに農薬入りのカレーを食べさせて殺害した事件というのが以前あったことは、皆さんの記憶にもまだ残っているとおもいます。この事件では、首謀者は殺人罪として刑罰に処されたわけですが、これは当然の結果として世に承認されたことです。

ところで、我々が普段口にする野菜や果物。これらにも実は農薬が塗られています。

これらの農薬が塗布された食物を口にしたからといって、明日死ぬわけではないことは皆さんも知っています。しかし、農薬は蓄積されていき、長期的には確実に寿命を縮めていきます。

ここで問題なのは、同じ農薬を使って、一方は即日に死に至らしめ、もう一方はゆっくりと時間をかけて殺害する場合、片方は悪質な殺人罪として罰せられ、もう片方は農業というビジネスとして一般的に成り立っているということであります。

ということは、人間社会のルールでは、数時間で起こることが罪となり、数十年で起こる場合は罪とならないということになります。しかし、かの次元の定義では、「罪」に時間は関係がないのです。

別章で説明したように、罪とは、霊的真理に反すること(生命エネルギーの供給を遮断する行為)を行うことであります。たとえ、数十年、数百年後に害が表れる行為でも、作っている当の農家も食べないような作物を流通させたり、農薬を蒔いて大地を枯らして酸性雨の原因をつくるようなことは、農薬入りカレーを食べさせて殺害するのと同じ罪となります。

農家の人は知っているのです。彼らはゴム長靴を履き、マスクをして身体を守ってます。

ところで、現在はどんな場合でも(戦争や死刑などは免除されていますが)人を殺すことは罪といいますが、時代と国によっては、親兄弟のために仇を討って人を殺すことは罪でなかったこともありますし、主君のために人を殺すということもまかり通っていたこともあります。

しかしよく考えてみると、時代が変われば制度が変わり、罪の定義が変わるというのもおかしな話です。

一方、われわれ現代に生きる人間は、溢れるばかりの情報に毎日触れています。そのほとんどの情報が、メディアによって一方的に伝えられていることに気が付かれている方は、どれだけいらっしゃるでしょうか。

例えば、自国にとって不利になること、ある団体にとって知らされると存亡の危機になるといったような場合には、情報の操作が行われることがあります。

すべての事象をあるがままに受け入れるということは、こうした物質世界の損得勘定によって操作された情報をそのまま鵜呑みにするということではないのです。

何万もの他国の国民を殺した事実は犯罪として報道されずにベールに覆われて、かつて協力した人をテロに仕立て上げて自分達が正当化されてしまうご時世です。

それでは、時代や国、人種や宗教などに左右されない普遍的な定義はないのでしょうか。

人間がつくる制度に左右されない判断基準、それが「真理の物差し」です。

ここでは、「罪」を例にとって説明しましたが、この真理の物差しはあらゆることに使える道具であります。真理の物差しといっても、何もかしこまって考えることはないのです。ここまでお読みになった皆さんには、すでに真理の物差しが与えられているに等しいのです。

本書の意図は、一言で言えば、一人でも多くの人に「真理の物差し」を使ってもらうことです。

「真理」は単純なものです。量子物理学のような、学者にしかわからないような研究をしなければわからないようにはできていないのです。たとえ、字が読めない、学問がないという人でもわかるようにできているのです。それは、「真理」が森羅万象の中に見ることができるものだからです。

自然を大切にする心、あらゆる生物を慈しむ心、常に人のために奉仕する心。身体という道具を使って、また心の想念を使って、そうした行為を実行していけば、より大きな愛(生命エネルギー)を受けられることにつながるでしょう。

金銭欲、名誉欲、所有欲といった物質世界の欲に染まってくると、霊子線から得られる生命エネルギーが遮断され、俗に言う「魔が射した」という状態になります。この状態では、真理の物差しで測ることは非常に難しいです。「欲ボケ」とは、まさにこのことです。

真理の物差しを使うようになると、そうした道をはずれた行為をしようとしたときに、自然に心で「本当にこれでよいのだろうか?」という疑問が湧いてくるようになります。

よいとか悪いという、裁定を伴った判断をするのではなく、愛のある行為かどうか、その動機が自分たちの利益だけのためでないかどうか、よく考えながら生きていきたいものです。

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