意識する・しないは別として、霊格の向上に努め出すと、次のように考える人も出てくるのでしょう。
「何となく自分の使命が何であるかはわかっているつもりだが、それを実行するための資金が今はない」または「自分には○○という病気であるため、とても人様のお役に立てる状態ではない」
それもそうでしょう。健康で、金銭的にも裕福で、家庭も職場も調和のある幸福な生活を送っているなどという理想に近い状態にいる人間が一体何人いるのでしょう。
しかし、厳しい見方ではありますが、これは言い訳、あるいは不平を言っているだけにすぎないのです。
メッセージでは次のように教えています。
「今あなたがしなければならないことをするためのものは、今すべて与えられているのです」
こんなことを言うと、「それでは、植物人間になった人などは、一体何ができるというのですか?」と極論を述べて反論する人もいるかもしれません。
確かに、一般的には「脳死」や「植物人間」にある状態の人は、自分の意思では行動できない、従って人の役に立つなど及びもつかない存在と考えられがちです。しかし、実はこの方たちこそ真の勇者とも言える存在であるかもしれません。
なぜなら、その方たちはことによると、そうした役を買ってでることを(生まれてくる前に)進んで約束してきたのかもしれないからです。
本人が意識で自分の肉体をコントロールできなくなったとき、周りの家族や友人はどういう反応を示すでしょうか?やさしく最後まで根気よく面倒を見てくれる人もいるでしょう。また、冷たく見放して、財産の相続などを考える人もいるでしょう。しかし、そうした反応がどうであったとしても、周囲の人には少なからず影響を与えているのです。
つまり、その人の存在そのものに価値があるということになります。
だから、決して肉体的に不自由になったからといって、必ずしも貢献できない、価値のない人間とみることは、誤った見方ということになります。
さらに一歩踏み込んで考えれば、現在の自分が置かれた状態がどうあれ、自分がすべきことをするためのものは、今すべて与えられているということです。
それに気づかずに、自分の今ある金銭状態や健康状態、時間的拘束や物質的な制約といったものに左右されて、それを理由に本来やるべきことを「できない」と言っているのは、言い訳にしかすぎないというのです。
そして、自分自身のための満足にしかならないような安易な選択をしていると、そのツケ(カルマ)は、後(今回の人生に現れない場合はその後の人生)に「学び」という形で現れます。
遅かれ早かれ、結局は自分が学ばなければ、学ぶための苦労が続くわけであるから、なるべく早めに悟って、悪いカルマを残さずに、より高度な、しかしより豊かな実りをもたらしてくれる使命にチャレンジした方がよいことは明白です。そのために必要なものは、その選択をしたときには備わっているはずであります。